• ホーム
  • みんなの写真
  • 自分のアルバム
  • 年表&地図
  • 動画

横浜写真アーカイブ協議会主催シンポジウムレポ・・・と見せかけた横浜歴史話・その1

  「よみがえる昭和 港・まち・くらし~横浜の記憶を写真で残すためのシンポジウム~」が無事終了しました。イベントが終了したというだけで今後本サイトを運営していくための体制作りという本題に取りかからなければいけないわけですが、それはそれと致しまして、2月8日の夜を振り返る体で幾つかのキーワードを拾い上げ、我が街「横浜」の歴史を少しだけ紐解いてみたいと思います。

 まず最初に横浜写真アーカイブ協議会代表・横浜市立大学の鈴木伸治准教授より開会の挨拶があり、これまでの活動と今回のシンポジウム開催に至った経緯などが語られました。詳細は本サイトの特集記事をご参照頂ければよろしいかと。(手抜きと言われたら反論出来ませんのでお許しを。)

 続いて「記録されないものは記憶されない ~写真からよみがえる昭和の港・まち・くらしの記憶~」と題し、協議会メンバーの和田昌樹さんと元神奈川新聞社勤務で現在も写真家としてご活躍の五十嵐英壽さんによる基調対談が始まりました。

 wada-igarashi1.JPG

   五十嵐さんが撮影された貴重な写真をプロジェクターで投影しながら対談が進行していきました。この内容を昨年の7月に北仲スクールと横浜ストリームが共催した「北仲ACTワークショップ - 地域×デジタルアーカイヴ」の時の如く全て書き起こしてみようか、などという思いが一瞬脳裏を掠めましたが、今回は横浜市民メディア連絡会のサイトで動画がいつでも見られるということを考慮し、また以前と同じことをやっても面白くないので少し趣向を変えてみることにします。それで怒られたら直すといういつもの手段ということで。ちなみに当日の動画はこちら。

その1

その2

ついでなので、去年の北仲ACTワークショップ@tvkアプローズ再現レポはこちら

・・・改めて読んでみますと、今回のイベントとリンクする内容がけっこう出てきますね。

 さて、五十嵐さんがお持ち下さった写真の中に、本牧神社の伝統行事でハマの奇祭とも称される「お馬流し」の様子が写っているものがありました。聞き手の和田さんが何気なく「なんで『馬』なのかな。」とおっしゃったものの時間が無くそのまま次の話題になってしまったのですが、実はなかなか奥深い話で、謎を解く鍵は本牧神社の由緒にある様です。現在の社地は、第二次大戦後に米軍の接収に絡んで仮遷座され更に返還整理後の区画整理によって換地された場所で、元々は「本牧十二天社」という社名で岬先端部の出島に鎮座していました。この経緯も横浜らしい話ではあります。因みに十二天社の由来は、元は大日靈女命の神像を奉斎していたけれど、ある時から本地垂迹説を取り入れて「仏説十二天」を大日靈女命の前に祀る様になったからといわれています。拝殿の後ろからお参りするという風習が過去にあったというのも、御神体が後方にあったということに由来するのでしょう。

 ハマ経に掲載されたお馬流しの記事はこちら

 本牧神社社伝によれば、建久2(1192)年、源頼朝が鎌倉幕府開幕にあたり鬼門(艮=北東)守護を祈念し平安期既に当地にあった小祠に朱塗の厨子を奉納したのを縁起としています。神奈川県域に鎮座する神社・仏閣の沿革の多くに頼朝が絡んできますが、地理的に考えても自然でしょう。そこで何故「馬」なのかという疑問ですが、この界隈には平安期に朝廷の御牧があり、その後の鎌倉期には軍馬の放牧地になったとも言われています。ここで出てくるのが、死んだ馬を浜から海に流していた事に由来しているとする説です。ただし他にも、遠い昔に疫病が流行ったので悪魔を流してしまおうとしたのだとか、「お馬=御魔(おんま)」ということで、邪神を海に流す為に 行ったとか複数の説が残っています。しかし、再三「馬」と言ってきたものの、実際のお馬流しをご覧になったことのある方々はお気づきでしょうが、お馬は全体として動物の馬を模したものではなく、頭部のみが馬で体部は亀という不思議なものです。

honmoku2.JPG

 ここで気になるのは、本牧神社の位置から頼朝が作った武家の古都・鎌倉の中心を見た時、その直線状にもう1つハマの奇祭を伝える古社、波除八幡こと富岡八幡宮があることです。今何かと話題の大相撲に縁のある深川八幡こと東京の富岡八幡宮が、実はこのハマのエビスさんから勧請を受け創建されたことはハマっ子でも意外にご存知ない方が多い様ですが、それはさておき、この横浜富岡八幡宮も本牧神社と似た様な由緒(源頼朝が当地鎮護の為、摂津難波の「蛭子尊」即ち「エビス神」、現在の西宮神社を勧請)を持つ点と、800年以上の歴史を持つ「祇園舟」という祭りが伝わっている点に注目するべきでしょう。詳細は異なりますが、祇園舟もお馬流しも、海の沖合い遠くに罪汚れ・禍事を流してしまおうという部分は同じです。河川などで行う「精霊(灯籠)流し」と同じ様な起源を持っているとも考えられます。

tomioka1.JPG

 厄を払おうとする儀式には様々な形があります。火で燃やすとか土に埋めるとかでも良いはずなのに、海に流すという共通事項が意味するもの。恐らく海に面して暮らしていた人々、つまり漁村には何かを海に流して厄払いをしようという風習が古くからあって、そこに途中で何を流したらよりご利益があるのかいうことが付加されたのではないでしょうか。そう考えれば上記複数ある由緒はどれか1つに限定されるものではなく、全てが複合して「お馬流し」となったのであって、またこの特殊神事が大都市・横浜の片隅に今日まで受け継がれているということが、様々な歴史の流れを含み、そして表現していると言えるのかもしれません。

(つづく)  (天)

その他の記事

*歴史カフェ(ver.0)終了*

横浜写真アーカイブ協議会主催シンポジウムレポ・・・と見せかけた横浜歴史話・その3

横浜写真アーカイブ協議会主催シンポジウムレポ・・・と見せかけた横浜歴史話・その2

過去の記事を見る