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横浜写真アーカイブ協議会主催シンポジウムレポ・・・と見せかけた横浜歴史話・その2

   「その1」の中では2月8日の動画について横浜市民メディア連絡会のサイトを紹介致しました。

 手前味噌ではございますが、横浜ストリームとしても記録を残しておりますのでサイトにアクセスしてみて下さい。

横浜ストリーム 2011/2/8 シンポジウム

その1

その2

 因みにほぼ全編文章化した昨年7月のACT北仲ワークショップもございますので、こちらも是非。

その1

その2

 さて、五十嵐さんと和田さんの基調対談内で気になった写真、話題についてもう1つだけ触れたいと思います。今ではMM21地区なども開発され全国的に知られる横浜のイメージとしても定着している様ですが、ある世代以上にとってやはり横浜の中心でありシンボルと言えば、山下公園から眺める氷川丸とマリンタワーではないかと思います。特に氷川丸には凄絶な過去が秘められていて、実際には港に係留され穏やかな余生を送っている姿しか見たことのない多くの人々も、美しくも悲しい心惹かれる歴史的遺産という認識をしているのではないかと思います。

 強引に前回・その1の話題と結びつけると「神社」という共通点が出てくるわけですが、これについて以前若者同士が会話をしているのを偶然聞いたことがあります。「氷川丸の中に神社があるの知ってる?」「へえ、そうなんだ。同じ名前だからかな。」また、ネット上のやりとりの一部で「氷川丸は神社を祀ってたお陰で沈まなかった。」的な発言を見たこともあります。この会話の主たちがその後きちんと氷川丸の歴史について理解を深めたかどうかはともかく、あまり気にしていない人にとってはこんなものかと思った記憶があります。

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日本郵船歴史博物館さんのアルバム

 ご存知の方にとっては何を今更なお話でしょうが、氷川丸はかつて横浜にあった造船所「横浜船渠」が昭和初期シアトル・バンクーバー航路用に建造した貨客船です。横浜船渠は後に三菱重工業に合併吸収され三菱重工業横浜造船所となります。前後の詳細な合併や諸々の設立経緯についてはここでは省きますが、つまりは現在の日本郵船ということになります。氷川は言うまでも無く武蔵一之宮・氷川神社に由来していて、偶然同じ名前だったから神社を祀ったのではなくて、氷川神社ありきなわけです。

日本郵船歴史博物館・日本郵船氷川丸サイトはこちら

 氷川丸単独で考えると分かりづらいかもしれませんが、「彼女」の姉妹船たち、同じシアトル・バンクーバー航路に就いた日枝丸と平安丸、サンフランシスコ航路に就いた浅間丸、龍田丸、秩父丸といった名前を見ればそれが一目瞭然です。因みに秩父丸だけ後に鎌倉丸と改名されますが、これはローマ字表記のせいで、元々ヘボン式で「chichibu」とされていた時は問題なかったものの、訓令式の「titibu」に変えた途端英語圏の人々に笑われる様になってしまったからだといわれています。("tit"はオッパイとか乳首といった意味のスラング)

 この6隻は全て昭和初期北太平洋上で繰広げられた北米諸国との貨客船就航競争の中で、日本郵船が当時の日本政府の援助を受け造船、戦争突入時に日本海軍に徴用され病院船、潜水母艦、運送船などとして使われる様になりました。戦火を潜り抜け無事生き残れたのは氷川丸だけで、他の5隻は何れも撃沈され多くの命とともに海に沈みました。こういう歴史を知っていれば前出の若者の様な発言は出て来ないでしょう。とは言え氷川丸以外は実体がこの世から消え、またその記憶も意図して語り継がない限り人々の中から消え去ろうとしているのも事実で、何も知らない彼らを非難することは出来ません。

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猫きちさんのアルバム

 8日のシンポジウムの中で「語り継ぎたくない歴史」という話が出てきたことを思い出します。つまりその当事者にとっては汚点である出来事はなるべく過去から抹消したい。実際歴史の秘部などと言われる未解明の事件は、そういった理由により後の「歴史的勝者」たちが記録から消し去ってしまったがために謎と化したものが大半であると思います。政治的背景云々もあるでしょうが、生身の人間として己の失敗や自身のトラウマを残しておきたくないという心理が働くのもまた自然なこと。ならば、多少生々しさの薄れた後の世代の者、或いはある程度俯瞰で物事を見られる立場の人間が、直接の記憶と記録を持っている世代や当事者の方々にアクセスし、様々な角度からそれらを検証、且、冷静な目線で改めて記録、保管していくという作業をしていくべきでしょう。

 シンポ当日活動事例報告をして下さった東海大学の水島久光教授が手がけられた「冬の波-第六垂水丸遭難とおおすみの記憶」(昭和19年2月戦時中情報統制下の鹿児島垂水港沖で起きた海難事故についてのドキュメンタリー)などはそういった流れで行われた部分が大きいのではないかと思います。

 GEDC0589-1.JPG

メル・プラッツさんの「冬の波」に関するコンテンツはこちら

 近年この「橋渡し」作業こそ、私達の世代そして時代に課せられた大きな役目の一つなのではないかと強く感じる様になってきました。ここで必要になるものこそ写真であり、映像であり、本来あるべき場所つまりは撮影地に戻すことが大切で、それらをきちんと分類・整理した後活用し、更にこの三つの作業をひらかれた形で行うことが今後地域アーカイブに求められるものであろうと水島さんも語っておられました。

 (つづく)(天)

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*歴史カフェ(ver.0)終了*

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