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横浜写真アーカイブ協議会主催シンポジウムレポ・・・と見せかけた横浜歴史話・その3

 「その3」に突入してしまいました。そもそも「8日のレポ書いて。」と指令を受けたにも関わらず、ほぼ8割方自分勝手な文章を書きなぐってきた件について気にはしてますが、このまましれっと最後まで行きたいと思います。(居直り)

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 お写真向って左から、コーディネーターの和田さん、小説家の山崎洋子さん、NPO法人ザ・ダークルームインターナショナル代表の近藤宏光さん、天神山貞昌院副住職の亀野哲也さん、アカデミック・リソース・ガイド株式会社代表取締役で、NPO法人横浜コミュニティデザイン・ラボ理事の岡本真さんという布陣。それぞれの略歴はこちら

 時間がかなり押してしまったので、当初10分のはずだった休憩を5分に削り、パネルディスカッションが始まりました。

 唐突ですが、ここで裏話をあえてさせて頂きます。実はもうお一方、写真家の真殿英男さんにこのパネルディスカッションへのご参加をお願いしていました。真殿さんは横浜松坂屋の宣伝部で30年間ポスター撮影をされていた方で、本サイトにも貴重なお写真をたくさんご投稿頂いています。

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真殿英男さんのアルバム

 ところがご体調が優れないとのことで、残念ながらこの日はご欠席となってしまいました。真殿さんのお早いご回復を協議会メンバー、事務局スタッフ一同お祈り申し上げております。そして復帰の折にはまたイベントへのご参加をお願いしたいと存じます。と申しましても急かしている訳ではございませんので、ゆっくり、しっかりご病気の治療をなさって下さいね。

 そういった訳でまた本編とはズレた私的感情をぶちまけておりますが、ズレついでに。ディスカッションが始まる前、和田さんが「横浜でジェット戦闘機が墜落した事故を覚えている人はいますか?」という質問を会場に投げかけてらっしゃいました。「1960年代に」とおっしゃっていたのでおや?と思いましたが、あれは1977年のことですよね。じゃないと私が「覚えてます!」と、正直に手を挙げたら年齢詐称疑惑が浮上しますので、念の為。(因みに1964年に米軍機が墜落したのは厚木と町田で、しかも厚木では同じ日に2度事故が起きている)

 一般に「横浜米軍機墜落事件」と呼ばれ、ネットでもその名称で検索すれば多くの記事が出てきます。厚木基地から海上の空母ミッドウェイに向けて飛び立った米軍の偵察機が、再編分区前の緑区、現在の青葉区の住宅地に墜落。一般市民に被害が及び、中でも直撃された民家にいた幼い兄弟が翌日亡くなり、その兄弟の母親も大火傷を負うという居た堪れない事件でした。しかもその母親は火傷とPTSDに苦しみ続けて5年後に亡くなってしまいます。年齢がバレてしまいますが、この兄弟たちは私とほぼ同じ世代だったと思います。なので、事件当時の報道以上に母親が亡くなったことがニュースで流れた時に、よりショックを受けたことを覚えています。

 こんな大惨事にも関わらず、様々な人々の思惑が働いた結果、多くの市民の記憶の彼方に追いやられた状態にされてしまったのです。母親が亡くなった2年後に遺族の要望で「愛の母子像」が中区の「港のみえる丘公園」に設置されますが、この像には長らく何の説明文も付いていませんでした。今から5年ほど前にようやく簡単な碑文が付けられましたが、設置された1985年から21年、事件が起きた1977年から数えると、実に29年という月日が流れてからのことです。

 実際に人が亡くなっている事件なのにこの程度です。70年代には旭区でも米軍機墜落事件が起こっています。こちらは奇跡的に死傷者はなし。ところがそのせいで荏田の事件以上に人々の記憶からは消え去ってしまっている様に思います。ここら辺は人的被害がなければいいみたいな印象が拭えませんし、そもそも一部の事故を除いて、「落とされた側」の人は亡くなっているけれど、「落とした側」は大抵生きてることに市民がもっと敏感になってもいいのではないかと思います。

 近年沖縄での種々の問題がクローズアップされた時、一番それを身近に感じたのが私たち横浜市民、神奈川県民ではなかったのかと思いながら、自分一人では何も出来ない非力さも痛感しました。けれど、多くの人々の意識が集えば何かが変わるのかもしれないな、とアラブの国で起きた独裁政権崩壊のニュースを見て思いを新たにした今日この頃です。

 ここまで話が脱線しまくると、もうどうせ誰もついてきてないだろう、というある種の開放感が(笑)。上記事件の概要説明の部分で「再編分区前の緑区、現在の青葉区」という件が出てきますけれど、この青葉区が誕生したのがもう17年前のことだとこれを書きながら気付いて驚きました。なるほど今の若者にとっては「横浜18区」が当り前なのですね。ではどんな風に18区は出来上がっていったのでしょうか。

 横浜市域の変遷を文字でざっとまとめると以下の様になります。

1889(明治22)年、横浜区域を元に市制施行。面積は5.4K㎡、人口12万人ほどの横浜市が誕生。

(横浜区とは、久良岐郡内の人口密集地域「関内地区」を中心とした81ヶ町のこと)

1927(昭和2)年、区政施行。鶴見、神奈川、中、保土ヶ谷、磯子の5区誕生。周辺地域を編入しつつ市域拡張。

1936(昭和11)年、中、磯子区に現在の港南、金沢区域が編入。

1937(昭和12)年、神奈川区に現在の港北区域編入。

1939(昭和14)年、神奈川区から港北区分区、戸塚区を設置し磯子区域の一部が移管。

1943(昭和18)年、中区から南区分区、神奈川区の一部が中区に移管。

1944(昭和19)年、中区から西区分区。

1948(昭和23)年、磯子区から金沢区分区。

[1956(昭和31)年、政令指定都市]

1969(昭和44)年、南区から港南区、戸塚区から瀬谷区、保土ヶ谷区から旭区、港北区から緑区がそれぞれ分区。

1986(昭和61)年、戸塚区から栄区、泉区分区。

1994(平成6)年、港北区、緑区を再編し、港北区、緑区と 新たに青葉区、都筑区を設置。18区となる。

2010年の調査時点で人口約368万人(日本の市町村でトップ)、市域面積437.38K㎡。

 この120年余の間に爆発的に人口も面積も拡大していったんですね。現在の中心部から周辺に「侵食」するかの如く、横浜という街は広がっていったわけです。パネルディスカッション登壇者の亀野哲也さんは、その侵食された側ともいえる港南区にある寺院、曹洞宗天神山貞昌院の副住職さんです。本サイトの特集記事、「ITを活用した郷土史のデジタルアーカイブ化の取り組み~我が町の歴史再発見、そして次代への継承を目指して~ 」でも取り上げられていますが、貞昌院は430年の歴史を持っていて、なんと約200年前のものと推定される現存する日本一古いおみくじがあります。しかもこのおみくじ「凶の比率の高さ」も日本一なのだとか。以前私が聞いた話では、最近の神社・仏閣の中には特にお正月の時期などにおみくじから凶を抜いてしまっている所もあるのだそうですが、江戸時代は逆に神仏から辛辣なことを言われる方が良かったんでしょうか。

 ちなみにこの天神おみくじはWEB上でも引ける様になっていますので、皆さんもお試しあれ。

 パネルディスカッション内で亀野さんが「港南区は今では横浜18区の1つですが、昭和11年まで相模国鎌倉郡でした。」とおっしゃったのが上記の表でわかりますね。もっと根本的な話をすると、現在の神奈川県域の大半は相模国だったわけですが、私たちの住む横浜市はその殆どが武蔵国。保土ヶ谷区に境木という地名がありますが、国境の目印に木を立てていたことに由来していて、つまりあの辺りが古い境目の一部というわけです。基本的には戸塚区とそこから分区していった瀬谷、泉、栄はほぼ相模で、それ以外の区域が武蔵と考えられますが、港南区辺りはなかなかややこしい経緯を辿って18区の一員になった場所です。

 横浜という街はこうして複雑怪奇にその範囲を広げて巨大化したために、包容力があって様々な文化を持つ一方、悪い言い方をするとまとまりがなく団結力に薄い嫌いがあるのは、こういった「境目問題」が多少なりとも影響しているのではないかと感じる時があります。

 登壇者の山崎洋子さんが、「横浜の人ってとてもドラマティックな歴史があるのに、自分達の街の歴史に興味が薄いな、と感じているんです。」とおっしゃった時には地元民として軽くショックを受けました。ただ同時に否定出来ない部分もあるとも思ったのです。山崎さんはその理由を「モノが残っていないから。」という風に説明されました。それは殊に中心部に壊滅的打撃をもたらした2つの出来事、1923(大正12)年の関東大震災と1945(昭和20)年の横浜大空襲によるものでその通りだと思います。しかし、無闇に街が巨大化したことによって生じた「同じ地域という一体感が持てないシンドローム」も、市民が街に対して興味が薄かった原因の1つだったのではないかと考えています。

 私がこどもの頃に「裏横浜」とか「横山市」などという言葉を一部の人が使っていました。裏という言葉は今の裏原(ウラハラ)の様にちょっと通が行く奥座敷的感覚ではなく見下した意味合いで、要は中心部(臨海部)に住んでいた連中が、横浜市なのに海の無い地区、所謂ヒルサイド方面のことを指して言っていたと記憶しています。最近聞かなくなったところをみると、きっとその辺の差を強調する必要も無くなったのだと思いますが、高々30年位前でも意識の差があったのだと感じました。このあったのだ、という過去形を強調したいのですが・・・。

 本当にもう泣く泣く100歩譲って、去年までハマっ子は自分達の街に興味が薄かった、かもしれません。でも今年からは違います。変わったのです。その証拠が今回のシンポジウム開催だと思いたい、いや、思います。言い切ってみました、公の場で。新たなスタート地点にたった本サイトと協議会、そして設立を予定しているNPO法人の活動が、きっとより多くの人々の心を動かしていくものと信じて一旦締めたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

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 ・・・これレポじゃないだろー、とつっこまれることを想定して、もう少しつづくかもしれません。

(天)

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