今日はゆっくりと、私の祖父が残した記憶の一片をたどってみよう。
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1945(昭和20)年5月29日 白昼。 米軍により横浜市の中心地域が大空襲に見舞われた。B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃で横浜は壊滅。 我が家には、この横浜大空襲の戦火をくぐり抜けた1冊のアルバムがある。 | |
| 横浜公園 |
かつて、横浜市中区弁天通り付近に祖父・純の務める会社があった。
会社の名は「ハー・アーレンス継続社 横浜支店」。
明治27(1894)年ころの弁天通りは、本町通りとならぶ商人が集まる街で、横浜貿易の中軸をになう原商店などの有力生糸商も、ここ弁天通りに店を構えていた。一方で、外国人相手の土産物をあつかう店も多く、親しみのある通りだったらしい。祖父の務めていた「ハー・アーレンス継続社」はドイツに本社をもつ商社で、当時は化学肥料などを扱っていたようだ。神奈川県立歴史博物館にも同社屋の写真記録が収蔵されているほど、大きくて立派な外観だった。祖父は語学が達者だったから、商社勤めは自然の流れだったのかも知れない。
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| 弁天通り | ハー・アーレンス社 社屋 |
このアルバムの生みの親である祖父は写真を撮るのがとても好きなひとだった。ドイツの光学機器製造会社である、カール・ツァイス(Carl Zeiss)社のレンズで時代を切り取ってはアルバムに大切に保存していたようだ。会社がドイツ系商社だったから、祖父の生活にはカメラをはじめとする西洋文化が流れていたのだろう。祖父が野球チームに入っていたのか定かでないが、「THE FANCY PARTY OF AHRENS BASEBALL TEAM MAY 19/5/12」と書かれた看板をピエロが抱えている1枚を見つけた。ハー・アーレンス継続社にはユニークなベースボールチームがあったようだ。
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| 甲板にて | ベースボール・チーム「THE FANCY PARTY OF AHRENS BASEBALL TEAM MAY 19/5/12」 |
アルバムをめくると、祖父が港によく足を運んでいた光景が目に浮かんでくる。大型客船に貨物船、渡し船など、家族写真に次いで多い船の写真。コレクションの中に、横浜港鉄桟橋(現在の大さん橋)で撮影した港町横浜らしい写真がある。これはどうやら、本社ドイツからボッシュ社長が来日したときのものらしい。祖父は得意の語学で社長と何か会話を交わしたのだろうか。
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| 船 | 大さん橋にて ボッシュ社長来日 |
祖父が会社の研修旅行先で記録した同僚たち。和洋折衷のモダンな服装に身を包みポーズをきめて写っているが、よく見ると屋根も撮影ステージに利用されている。一方、牧歌的な風景のなかで撮ったものもある。それにしてもなぜだろう。集合写真が妙にかっこいい。
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| 研修旅行その1 | 研修旅行その2 |
| 1914年8月23日。大日本帝国はドイツ帝国へ宣戦布告し、日独戦争が勃発した。この終戦後、捕虜となった「ドイツ人俘虜」名簿(日本帝国俘虜情報局作成の「獨逸及墺洪國俘虜名簿」大正6年6月改訂)のなかには、「アーレンス継続社(H.Ahrens & Co.Nchf.)横浜支店」の名称も記録されている。 | |
| ハー・アーレンス幹部諸氏 |
1945年(横浜大空襲)。米軍は攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、お三の宮、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃した。
現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯は特に被害が大きく、その区域に我が家もあった。
家屋は全焼。残ったのは家族の命とアルバム1冊。襲撃前、家族はとっさに大切なアルバムを大きな火鉢に隠し、ふたをして土に埋めた。
一番上に乗っていたであろうこの1冊が、唯一空襲と水害を免れて、いま平成の空気に触れている。
明日は、祖父が下宿人として自宅に預かった、あるフィリピン人にまつわる思い出を話そう。
語り手 鈴木 信男
(聞き手・編集 黒金 真由美)
<写真 提供 のんのん さん>
鈴木信男さんプロフィール
鈴木信男さんは元小学校の教諭。現在は洋画家で等迦会会員。
ご自宅の一室は鈴木さんの油絵作品が優しく並び、まるで美術の間。
