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浜っ子の愛する横浜・三溪園 第2章

文化サロンとしての三溪園

三溪園は、多くの文化人や芸術家からも愛された。ドイツの美術史家フリーダ・フイッシャーやアメリカの美術収集家チャールズ・ラング・フリーアなど、遠く海外からも訪問者があった。


三溪園にあった松風閣
「原家初代の善三郎が山荘として、明治20年ごろ東京湾や富士山を臨む崖上に建てたレンガ造の建物であったが、関東大震災で惜しくも倒壊した。」


高台に建てられた松風閣付近から眺める富士山は絶景で、広重の浮世絵「富士三十六景」におさめられた地でもあった。インドの詩人ラヴィンドラナート・タゴールは、この松風閣に2ケ月半にわたり滞在し、その時の様子を日記にこう綴っている。「[・・・]やがてわたしたちは、横浜の裕福で芸術を愛好するある人物の好意を受けることになった。この人の庭[三溪園]は楽園のように美しく、その人柄もまた、すべてにおいて庭の美しさにふさわしい。[・・・]」(『タゴール著作集』10巻)。三溪園での滞在中に詩を創作したタゴールは、三溪の細やかなもてなしをうけながら、静かで幸福な時を過ごしたに違いない。


昔の桜道(現バス通り 106系統)
「桜道は、本牧通りから三溪園正門まで続く桜並木の道で、バス停にその名をとどめる。写真は桜の開花のころに撮影されたもので、ぼんぼりや着物姿の人物など今にはない風情が感じられる。」


また、原三溪の息子・善一郎の学友であった芥川龍之介も訪れている。『芥川龍之介全集』(昭和53年)には、芥川が三溪園を訪問する約束の朝、あいにくの雨模様に急遽訪問を取り止め、その旨を善一郎に詫びる書簡が載っている。雨に降られて、本牧なる地が果てしなく遠く思われたのであろう差出人の気持ちを思うと微笑ましい。今で言うところのドタキャンをしてしまった芥川だが、翌年の善一郎への書簡には、三溪園に来園して三溪の所蔵品「焰魔天像」(現MIHOミュージアム所蔵、重要文化財)を見せてもらい、「甚大な感動」を受けたことがしたためられている。


三溪園にあった望仙亭
「通称"六角堂"の名で親しまれた展望台の建物。関東大震災で消失した。」


吉川さん「三溪は、要望があれば自分のコレクションを誰にでも見せていたようです。三溪の旧宅である鶴翔閣(かくしょうかく)には、夏目漱石や和辻哲郎、佐佐木信綱などの日本を代表する文化人が集い、横山大観、下村観山などは絵の制作のために長期間滞在しています。三溪園は文化や芸術のサロンとしての役割もしていたと言えると思います。」


花菖蒲と鶴翔閣
「鶴翔閣は、三溪園の創設者 原 三溪が住まいとして明治時代末に建てた建物で、現存する。写真には花菖蒲とともに麦藁帽子に浴衣姿の親子連れが写り、初夏の風情も感じとれる。」


1922年(大正11年)に、三溪は聴秋閣の移築をもって内苑を完成させ、翌年春に記念の茶会を開いた。庶民の憩いの場でもあり、文化人たちの交流・思索の場でもあった三溪園には、穏やかな時間ががいつまでも続くかのように思われた。しかしその数カ月後には、関東大震災が起こる。三溪園は甚大な被害は免れたものの、横浜は壊滅的な状態になった。三溪はそれまでの美術品収集や作家支援を止め、横浜市の復興に私財を投じたという。横浜の大らかな空気のままのような人、原三溪の晩年に向かう姿である。



写真提供:横浜 三溪園 http://www.sankeien.or.jp/



【巻末データ】

財団設立50周年記念誌 「三溪園・戦後あるばむ 今と昔、変わらないこと・なくなったもの」 2003年10月31日発行 編集・発行 財団法人 三溪園保勝会


「三溪園戦後あるばむ」表紙
「三溪園を管理運営する、財団法人三溪園保勝会は、昭和28年に発足、平成15年に設立50周年を迎えた。そのとき発行された記念誌がこの本誌。長く親しまれた三溪園を利用者の視点から捉えるという意図のもと、戦後を中心とした写真やエピソードを一般から募集、構成を試みたものである。日本庭園然とした今の姿とは違った、気楽な行楽地であったころの三溪園を髣髴とさせてくれる一誌。」



【吉川利一さんプロフィール】

三溪園(財団法人三溪園保勝会) 事業課・広報担当

(執筆 大谷薫子)

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