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レンズから見えるハマの歴史と街の息遣い 第2章

中華街編~風水と歴史が紡ぐ異空間~


地図を見るとすぐ分かるが、中華街だけは周辺のエリアに比べて方角の基準となる道筋が明確に違っている。中華街だけは周囲になじまず、ぽっかりと異空間であることがうかがえる。 しかし地図上のNS基準を見ると、実は中華街だけが正確に東西南北を示している。これは風水の考え方にしたがっているのだろう。そしてこの地図上の異空間は、この街が誕生したはじめから変わらない。そんな異文化空間としての空気がこの街の魅力でもある。



中央門を背に立っているのは、萬珍楼の当時の主人。後ろ正面の大新飯店の場所は、現在、市場通りに本店がある四五六飯店の別館となった。


昭和27年頃か。女性の脇のメニュー看板に注目。いろいろなメニューが書かれているが、値段は現在の10分の一。ちなみに、名称が現在の横浜中華街となったのは、1945(昭20)年8月15日、つまり終戦以降である。それまでは、南京町と呼ばれていた。名称変更には政治的な思惑が絡んだらしいが、戦後しばらくは昔どおりの南京町と呼ぶ人も少なくなかった。


写真の萬珍楼は、聘珍楼横浜本店とともに、現在も幅広く営業している名店。中華街は昔から何度か火災を起こしているが、その後の復活には力強いものがある。


叉焼専門店の均昌。とにかく味覚をそそるアプローチで、当時でもこうしてガラス越しに叉焼を焼くところを見せながら売る店は珍しかった。現在は、オリジナルの叉焼を売る店はいくつかあるが、それらのショップデザインのルーツといえよう。


双十節の獅子舞風景。10月10日の中華民国、台湾の建国記念日。10がふたつの日のお祝いだから双十節というわけだ。


獅子舞は、当時の中華街の町民の憧れだった。広東が発祥だという。店の中へ入って行っては、ご祝儀を大きな口で受け止める。そのご祝儀は、関帝廟に奉納する他、舞手や慰労会に使われた。


これも双十節のひとこま。演じるためには何ヶ月も前から血のにじむような練習が重ねられている。ちなみに、獅子舞の中身は、前が麦さん、後ろは呉さん。




中国の伝統芸能である、これも有名な龍舞。獅子舞の中に入るのは一人か二人だが、こちらは5~6人くらいの団体演技である。場所は、学校の校庭で当時の関帝廟前。


写真右奥に見えるのが、昔の関帝廟。当時は今のように誰でも気軽に入ることはできなかった。





ikoma2.jpg (語り手)生駒實さん
生粋のハマっこ。学生時代から押入れの中を暗室にして、写真を始める。機械いじりが好きで、終戦後は、野毛の露店で外国製のライター修理の手伝いも。
進駐軍に囲まれた街の風景が目まぐるしく変化する中で、再び写真への関心が高まる。東京の千代田写真学校で写真術を学ぶ一方、山下公園などのモデル撮影会に参加するなど、カメラを肩に街を撮り歩いた。
現在は、横浜市の「なかく街の先生」として郷土史研究、フィギアスケートボランティア指導もこなしつつ、写真研究家として街の変化を撮りながら観光ガイドを行っている。

生駒實さんのアルバム

(文責:銀二)

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