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浜っ子の愛する横浜・三溪園 第3章

-三溪園の戦後、人々の想い-


「戦後の臨春閣の惨状 その1」 三溪園の建造物は戦後の昭和29年から33年にかけて復旧修理工事が行われた。写真は、修理報告書に掲載された修理前の荒れ果てた臨春閣の姿である。


震災後の横浜の復興のために立ち会った三溪が、1939年(昭和14年)に70歳でその生涯を閉じた2年後、日本は太平洋戦争に突入する。横浜大空襲で三溪園は再度、打撃を受けた。爆弾の攻撃を受けた庭園には、畳6畳程の穴が空き、そこに池ができたという。爆撃により無惨な姿に変わり果てた臨春閣の写真は、当時の三溪園の惨状を偲ばせる。三溪園が往事の美しさを取り戻すには、戦後しばらく待つこととなる。


「戦後の臨春閣の惨状 その2」同じく修理報告書に掲載された修理前の荒れ果てた臨春閣の全景である。


吉川さん「戦後、原家が三溪園を手放すと決めた時、他所から買い受けの申し入れがあったそうですが、永年市民に親しまれたことから、横浜市に譲渡・寄贈されました。その後、財団法人三溪園保勝会が設立されたのは1953年(昭和28年)のことですが、財団は1958年(昭和33年)までに園の全ての復旧工事を終わらせました。戦後すぐの食糧難の時にあって、このような復旧活動ができたのは、憩いの場であった三溪園を早く取り戻してほしい、という横浜市民の想いがあったからでしょう」。


「三溪記念館(内部の展示室)」 三溪園の外苑と内苑を二分する立地に、平成元(1989)年に建設された三溪記念館は、建築家・大江宏の設計によるもので、創設者 原三溪の業績やゆかりの資料などを紹介している施設。気軽に立ち寄れる立礼の茶席・望塔亭やミュージアムショップも併設されている。


そんな横浜の人々の想いを形にしたような記念誌がある。2003年(平成15年)に50周年を迎えた財団が、一般の人から三溪園にまつわる想い出や写真を募集し、それを中心にまとめた「三溪園・戦後あるばむ」である。大池で鮒やざりがにを釣ったこと、房総半島や富士山を眺めながら三溪園の海岸で泳いだこと、あさりを昔の洗濯だらいにいっぱいとったこと、海水浴のあとチンチン電車に乗るのが楽しみだったこと、楠正成を祀った楠公社(戦災で消失)に必勝祈願をしたこと、空襲で家族がちりぢりになり、集合場所と決めていた三溪園の藤棚の下で、父親と会えなかったこと― ―寄せられた想い出には、数々の写真とともに、三溪園と共に時代を歩んだ人々の忘れられない時間が刻まれている。


「旧矢箆原家住宅(合掌造り)」創設者 原三溪が岐阜県の出身であることが縁で、昭和35(1960)年に移築された、白川郷の庄屋の古民家。飛騨の三長者の1人に数えられた家の建物だけに、大規模で日常生活のための板の間の空間のほかに代官などの接待や宿泊に当てられた畳敷きの部屋も備えられている。園内の建物中、唯一内部がいつでも見学できる建物で、火が焚かれている囲炉裏や古民具の展示が好評。2階では合掌造りの屋根裏も間近に見える。


横浜を愛し、横浜の人々から愛された三溪園。2007年(平成19年)には国の名勝に指定され、今も四季折々の景観で来園者を迎えている。


「鶴翔閣」明治時代末に、創設者 原三溪が住まいとして建造したもので、述床面積は約950平方メートルに及ぶ。横山大観など、三溪と交流のあった多くの文化人が出入りし、文化サロンとしての役割も果たした建物といえる。震災・戦災などを経て改変が著しかったが、平成12(2000)年の整備事業により創建当初の姿に戻され、近年茶会やコンベンション、ウェディングなどに利用できる施設として好評。



写真提供:横浜 三溪園 http://www.sankeien.or.jp/


【吉川利一さんプロフィール】

三溪園(財団法人三溪園保勝会)

事業課・広報担当


(執筆 大谷薫子)

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