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レンズから見えるハマの歴史と街の息遣い 第4章

港から山下公園へ


現在の小港、十二天、本牧あたりの沖は、1952(昭和27)年ごろはヨットのメッカだった。ヨットハーバーには、大小のクルーザーをはじめ50隻くらいが係留されていたという。こんな贅沢でゆったりとした光景が横浜の港にあったのだ。本牧沖ではヨットレースの練習風景もよく見られた。ヨットの停泊場所は、昭和初期の外貯木場(いかだ場)の一角を市から借りていた。隣には横浜を代表する岡村造船所の本社があった。現在はYCC(ヨコハマ・クルージング・クラブ)もある。



そんな海の香りに満たされた、まさにプロムナード=海岸遊歩道が、山下公園。関東大震災の瓦礫を埋め立てて1930(昭和5年)に完成した日本最初の臨海公園だ。訪れる人は、知らずの内にゆったりとした足取りを刻んでいる。決して急いだりしない。山下公園は、今でも四季の彩と汐の香りが醸し出すハーモニーを楽しむ市民の憩いの場所だ。


当時のハマの港を象徴するヨットハーバーと並ぶもうひとつの象徴が、赤灯台と白灯台。沖に向かって左右から内防波堤が伸び、沖に向かって左側の突端に赤灯台が、右側には白灯台があった。もっとも白灯台はその後外国船(英国客船カロニア号)が衝突して壊されてしまい、現在は山下公園の氷川丸の隣に代替が作られ、展示されている。


山下公園沿いの路で、バスに乗り込もうとしている婦人。本牧に向かう米軍関係者用のバスで、米軍車両と同じ濃い暗緑色であった。奥には、ドイツ領事館が見える。


現在の人形の家の前あたりから、大桟橋入り口方向に向かって撮影した山下公園前通り。道筋は現在とほとんど変わっていないが、当時はクルマがいないから、実に広々と空いている。自転車で並んで走っている2人の女性もなんだかとてもゆったりと、颯爽としている。正面奥は、ホテル ニュー グランド。


ホテル ニュー グランドは、ハマっ子にとって自慢の一つだろう。戦後しばらくは進駐軍=GHQの本部が置かれた。スパゲティ・ナポリタンもここで生まれた。

ニューグランド屋上から撮影した山下公園。戦後しばらくは、米軍家族ハウスもあって、金網が張られ、日本人が入り込めたのは、中央の噴水近くと港寄りの印度水飲塔(現在はコンビニがある)だけだった。山下公園にもアメリカがあったのだ。


クリーブランド・ウィルソン号は豪華な外国船籍の貨客船。現在の平成天皇が若きプリンスだった頃、米サン・フランシスコへの渡航で使用したこともあった。実は、撮影者の生駒さんは停泊中の同号に乗り込んだことがある。しかも最高級のスイート!当時船会社のクリーブランド社の支店が海岸通にあったのだが、生駒さんは、外国郵便を扱っていた同僚と仕事と称して乗船。ちゃっかりスイートも覗けたらしい。絨毯がふかふかで、カステラの上を歩いているみたいだった、というのだからその豪華さが伺える。


山下公園に続く大桟橋は、昔から外国航路の大型客船を迎える玄関口として発展してきた。現在の桟橋は、長さが450メートル、幅が100メートルで、深さは11.6メートル。3万トンクラスの大型船が4隻、それ以上なら2隻が同時に停泊できる機能と大きさを備えている。ウッドデッキの展望台は波のうねりをイメージしている。


左側の球状の碑は、日米和親条約締結記念碑で、現在は開港広場になっている。正面の建物は横浜海上保安本部で、現在は横浜港湾第二合同庁舎として建て替えられている。位置は大桟橋入り口右側の角地で、建物の右方面が山下公園になる。

ikoma2.jpg (語り手)生駒實さん
生粋のハマっこ。学生時代から押入れの中を暗室にして、写真を始める。機械いじりが好きで、終戦後は、野毛の露店で外国製のライター修理の手伝いも。
進駐軍に囲まれた街の風景が目まぐるしく変化する中で、再び写真への関心が高まる。東京の千代田写真学校で写真術を学ぶ一方、山下公園などのモデル撮影会に参加するなど、カメラを肩に街を撮り歩いた。
現在は、横浜市の「なかく街の先生」として郷土史研究、フィギアスケートボランティア指導もこなしつつ、写真研究家として街の変化を撮りながら観光ガイドを行っている。

生駒實さんのアルバム

(文責:銀二)

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