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横浜は「小さなアメリカ」だった

「フェンスの向こう側」

進駐軍の接収
1945年8月30日に横浜入りした連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥によって米軍による占領が開始され、横浜地区占領軍受入設営委員会は、まず横浜海運局(後の横浜税関)を占領軍司令部に、ホテル・ニューグランドを占領軍首脳の宿舎にあてました。
東京に移った占領軍司令部の占領から第8軍司令部の駐留に変わり、戦災を生き延びた建物や土地の多くが接収されて米軍の軍施設や軍人用住宅地にされました。
接収(オキュパイド:占領)を受けた地元では駐留する米軍を「駐留軍」ではなく「進駐軍」と呼びました。


【 地図 】


これらの接収地はフェンスで囲まれ日本人の立ち入りが禁止されたため、周りからは「オフリミット」と呼ばれていました。


【 生駒實撮影 】

【 奥村泰宏撮影 】

フェンスが戦勝国「アメリカ」と敗戦国「日本」を分断する国境の役割を果し、戦後に生まれ育った世代には、この「フェンスの向こう側」の「小さなアメリカ」は憧れの存在でした。


【 生駒實撮影 】


とくに接収面積が大きかった本牧地区のエリア1、エリア2と根岸台のエリアXは住宅用だったため、広い緑の芝生にアメリカンハウスが立ち並び、限られたエリアとはいえ豊かなアメリカそのものが展開され、焼け野原とバラックに住む日本人には羨望の地でした。


【 町田昌弘撮影 】


GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、1945年秋に横浜から東京・日比谷に司令部を移しましたが米第8軍司令部は横浜に残り、多くの進駐軍兵士を住まわすために中区を中心に接収地が拡大されました。
横浜市内の焼け跡のあちこちにカマボコ兵舎と呼ばれた正にカマボコ屋根のプレハブ家屋が設置されていったのです。


【 横浜市史資料室提供 】


もともと外国人の多かった横浜は進駐してきたアメリカ文化に順応しやすかったと言えるでしょう。接収された土地には通りの名前にも英語名が付けられました、ケンタッキー・アベニュー(現在の加賀町警察署前の長安道、旧加賀町通り)、テキサス・ストリート(山下橋から朱雀門前の川沿い、旧堀川町通り)などが有名です。元町の河岸通りはファースト・ストリートでした。どうやら米第8軍司令官の故郷にちなんだ命名だったようです。まあ現在の「水町通り」も元はと言えば維新のWater streetからの訳名と言われていますが、ここも接収中はアラバマ・アベニューと呼ばれました。

ちょっと脱線しますが、現在の元町(もとまち)の語原となった本村(もとむら)ですが、これは横浜本村(よこはまもとむら)が省略されたもので「横浜のルーツ」というべき名前です。

かつて山下町には本村通り(ほんむらどおり)と言う名の通りがあり、同名のバス停もありました。維新の居留地政策で横浜村の住人が現在の元町に移住させられた時に残した名前のようです。現在は「開港道」と「南門シルクロード」などと小洒落た名前で呼ばれていますが、なぜ変えてしまったのでしょうね。本当の意味で「横浜のルーツ」を示す大切な名前だったのに残念です...

当時極東と呼ばれた日本はアメリカ本土からの慰問が少なく、代わりに国内に作られた進駐軍クラブが進駐軍兵士の唯一の楽しみ場所でした。この進駐軍クラブも「オフリミット」とされ、限られた日本人だけが出入りできた場所でした。果敢にも「フェンスの向こう側」に潜り込んだ彼らによって横浜発祥の新しい音楽文化が築かれていったのです。

占領最盛期の横浜には数多くの「進駐軍クラブ」があり、横浜を統轄していたキャンプ横浜(Camp Yokohama)が運営していたクラブは、
 ・ゼブラクラブ(NCO、山下町・加賀町警察署前→後に現、県民ホールの場所へ移転)
 ・シーサイドクラブ(OC & Civil、本牧エリア1)
 ・オフィサーズクラブ(OC、新山下)
 ・黒人専用のクラブ45(EM、伊勢佐木町1丁目)
 ・黒人専用のニューヨーカー(キャバレー、山下町・旧港高校付近)
 ・クロスロード(NCO、日本銀行付近、相生町側)
 ・ゴールデンドラゴン(OC、横浜スタジアム付近、山下町側)
などがありました。(EWと呼ばれるWAC<女性兵士>専用も他にあったようです)

注:
 EM/EW(Enlisted Men/Enlisted Women's Club) 兵用クラブ
"Enlisted Men"とは志願兵や、兵役についている兵士を示します
 NCO(Non-Commissioned Officer's Club)下士官用クラブ
 OC(Officer's Club)将校用クラブ

日本の中にある 「フェンスの向こう側」、「小さなアメリカ」は、日本人にとって目の前にあっても立ち入ることができない、手の届かない憧れの場所でした。クラブの従業員や出入りする米軍軍人のゲストとして「オフリミット」に足を踏み入れるしか方法がない「近くて遠い外国」だったのです。


【 大谷卓雄提供 】


関内・山下町・山下公園

●山下公園
現在の山下公園から中華街手前の本町通り(アベニューB)までが接収され将校用の住宅地として使われていました。同世代の子供が少なくベース内の子供とよく遊んだ、幼い頃の筆者の遊び場でもありました。怖いMPもなぜか子供には寛大でした、まあベース内の子供と一緒では咎めるのも出来なかったのかも知れません。子供というのは片言の日本語と英語で通じ合う不思議なコミュニケーションを可能にしていました。


【 横浜市史資料室提供 】


1951年のサンフランシスコ講和条約に続き、公園内を残した海岸通り(アベニューA)から水町通り(アラバマ・アベニュー)を挟んで本町通り(アベニューB)までのセブ・コート(Cebu Courts)が先に接収解除になり、山下公園も1954年頃から部分的に接収解除が始まりました

●ニューグランドホテル
ダグラス・マッカーサー元帥が占領後直ぐから宿舎とするなど、永らく占領軍首脳の宿舎でした。サンフランシスコ講和条約後1952年にやっと接収解除され日本人が自由に出入りできる場所となりました。

【 生駒實撮影 】

【 奥村泰宏撮影 】
  ●ゼブラクラブ
ゼブラ・クラブというNCOクラブがありました。下士官用のクラブで、最初は加賀町警察署前の東京銀行ビルに開設され、後にアメリカ文化センター横の現在、県民ホールがある場所に移転し、確か白と青のゼブラ模様のネオンが目立つクラブでした。
NCOクラブでは大体ビールが15セント(ラーメン一杯15~20円の時代に、当時の価格で60円ぐらいに相当)、ウィスキーが20セント程度で兵士にとって安く楽しめる場所でした。料金にはバンドなどエンターテイメント代も含まれていました。


食事も可能で確かステーキが1ドル(ワンダラーステーキ)だったと思います。軽い食事のサンドイッチですらも、厚手のハムが何枚も入っている豪華なものでした。
ドルがまだ高くて簡単に手に入らず、クラブに潜り込む日本人にはそれでも高級でした。それゆえに進駐軍クラブに出入り出来ることはある種のステータスと言えたのです。


【 町田昌弘撮影 】


ゼブラクラブという名の由来は、下士官の階級章に斜め縞がたくさんありシマウマのようだったことによると言われています。現在でも基地によっては下士官専用の娯楽室を用意しゼブラルームと呼んでいるところも残っています。

●ゲーリックスタジアム(現、横浜スタジアム)
日本初の公園に設けられたクリケット場からスタートした「横浜公園野球場」は、接収によって「ルー・ゲーリックスタジアム」と呼ばれていました。1952年に接収解除後は「横浜平和球場」と呼ばれ、1978年に現在の「横浜スタジアム」に立て替えられました。


【 横浜市史資料室提供 】


●フライヤージム
市庁舎の真向かい横浜公園の関内駅側角にカマボコ屋根の体育館がありました。日本ではまだ珍しい正式な屋内競技場でとても頑丈な床と整然とした観客席が印象的でした。返還後は一時横浜市の体育館として学校などに貸し出されていました。
エルマー・フライヤー陸軍兵士の栄誉を称えて名付けられ、正式名は「フライヤーズ・ジム」です。


【 横浜市史資料室提供 】


三軍記念日や横浜名物5月のバザーには、ハンバーガーにホットドック、ビール、コーラやアイスキャンディ、大きなカップの濃厚なアイスクリームなど「フェンスの向こう側」であるアメリカの味を満喫でき、コイン投げで(パッケージの赤い丸の中にコインが入ればもらえた)ラッキーストライクを取るゲームなどが楽しめました。

●チャペルセンター

横浜公園の山下町側に小さな教会と集会所があり「チャペルセンター」と呼ばれていました。日曜には礼拝が行われ、日本人でも外国人宣教師の先生に連れて行ってもらうと入れました。後で集会所で行われるお茶会のパンやケーキ、クッキーなどはどれも絶品で、物が乏しく、食に貧しい日本人には別世界でした。
現在チャペルセンターは根岸エリアに移ったようです


【 生駒實撮影 】




新山下・小港・本牧

●本牧エリア1、エリア2
本牧には「小さなアメリカ」がありました。本牧通りにそってフェンスが張り巡らされ、その「フェンスの向こう側」はアメリカそのものだったのです。

Dアベニューと呼ばれた本牧通りを三渓園に向かって海側左手がエリア1、山側右手がエリア2。そしてさらにエリア2の丘の上(今の本牧山頂公園)にはベイビューと呼ばれた将校や高級技術者軍属の居住区がありました。


【 地図 】


1976年のバイセンチニアル(建国200年)では、現在の本牧山頂公園に登る坂の途中にあった水タンクに星形の記念のマークが描かれたことがありました。当時ベイビューに住んでいる将校の奥様に英会話を習いに行っていた筆者は、これを横目で見ながら車で登ったものです。


【 町田昌弘撮影】


同じマークが同年に入間基地で行われた国際航空宇宙ショーに、日本への売り込みのために展示されたF-15戦闘機の尾翼にも描かれバイセンチニアルマークとして有名でした。


【 F-15戦闘機 】


エリア2には学校、ショッピングセンター、ガススタンド、映画館など一般的なアメリカの町に在るものが揃っており、本牧には正に「小さなアメリカ」の町が存在していました。入り口角には小さなボーリング場もあったはずです。


【 町田昌弘撮影 】

【 生駒實撮影 】

【 相川隆撮影 】

小港・本牧には進駐軍クラブ以外に、日本人立ち入り禁止のバーだったリキシャ・ルーム(エリア1の小港側出入り口前で人力車の赤いネオンが付いていた)と米軍退役軍人クラブV.F.W.や日本人が割と楽に入れたIG、ポンコツ、ゴールデン・カップなどがありました。
大鳥小学校(本牧町)は米軍病院として使われ、東条英機元首相がピストル自殺を図った時に隔離・監視のために運び込まれたと聞いています。


【 相川隆撮影 】


●小港カムサリー(現、本牧宮原住宅付近)
ショッピングセンターPX(Post Exchange)は通称コミサリーやカムサリー(commissary)と呼ばれていました。現在は根岸の競馬場跡裏手のエリアXに移転しています。
真っ白なシホンケーキやポプシコル(popsicole)と呼ばれていたアイスキャンディーなどなど、日本ではなかなか手に入らないアメリカのレベル社やモノグラム社のプラスチックモデル(プラモ)も売っていました。


【 町田昌弘撮影 】


クリスマス時期のターキーは巨大で日本人にとっては憧れの食材だったのです。
ジーンズもここでは憧れのアメリカ製を手に入れることが出来ました。
ピンクのキャデラックオープンカーのご婦人(お婆ちゃん)がよくこのカムサリーに来ていました。司令官の奥様だと言われていたことを覚えています、目立つ車なので学校帰りにフェンスの外から眺めたものです。

●小港エリア1のシーサイドクラブ(現、本牧宮原の本牧いずみ公園裏手付近)
本牧にはシーサイドクラブというオフィサーとシビリアン(ゲスト)のOCクラブがあり、ここはゲストとして入りやすい場所でした。ゼブラクラブなどNCOクラブに較べ将校用だけにドリンク全てが1ドルと少し割り高でした。


【 相川隆撮影 】


亡くなったゴールデンカップスのリーダー、デイブ平尾のLP「横浜ルネッサンス」のジャケットにも写っています。入って左のオフィサーズバーには名バーテンダーが3人おり、エリア1の移転で閉鎖後3人は英会話学校、馬車道の西洋酒場、中華街のレストランバーを開いたと伝えられています。


【 相川隆撮影 】


● ビル・チカリング シアター(現、小港ジョナサン付近)
リンガエン湾のニュー・メキシコ艦橋で亡くなったTimeとLifeの従軍記者ウィリアム(ビル)・チカリングの栄誉を称えて名付けられました。テレビもない時代、楽しみの一つが映画でした。巷より早くロードショー作品が来ることもあり、そんな時は如何にして潜り込むかが大問題でした。(当然、日本語字幕無しです)


【 町田昌弘撮影 】


●小港トイランド(現、ベイシティ6,キリンシティあたり)
小港ベイサイドコート内には子供達にオモチャを売ったり、修理するトイランドと言う施設が設けられていました。(小さい子が遊ぶスペースもあった記憶があります)
ちょうど小港橋から新山下に抜けるS字の角にありました。

●新山下オフィサーズクラブ(今は新山下ベイシティ2・3裏の一段上がった公園、現米国国務省日本語研修所を降りたところ)
ここはベイサイドコート(Bayside Courts)と呼ばれたエリアで、中区中心部の接収解除の代替地として作られ、帰還前の一時的な住まいに使われていたようです。ベイサイドコート奥の階段を上がった丘の中腹にオフィサーズクラブがあり、おいしい食事を出す所でした。親に軍関係者がいるときは市内の外国人学校のパーティ会場にも使われていたようです。


【 町田昌弘撮影 】


●ヨーハイ(Yokohama American High-school、旧、本牧小学校)
現在のMYCAL本牧の前にある本牧山頂公園の入り口付近に、ヨコハマハイスクールを縮めて「ヨーハイ」と呼ばれた進駐軍家族用の学校がありました。ここは本牧小学校だったのですが接収され本牧小学校そのものが消滅しました。


【 相川隆撮影 】


接収開始からNasugbu Beach Elem → Yokohama American → Nile C Kinnick → Nile C Kinnick Jr.と4回も名前が変わっていますが、地元では「ヨーハイ」と呼び続けられました。接収当初は現在のマイカル本牧のあたりをNasugbu Beachと呼んでいたようです。


【 相川隆撮影 】


学校そのものが無くなった今もyohidevils.netと言う卒業生のサイトが残っています。
ヨーハイ卒業生の中では「スター・ウォーズ」の主役を張ったマーク・ハミルが青年期を過ごした場所としても伝えられています。


関内・伊勢佐木町

●ヨコハマ・サービス・クラブ(現、不二家)
わずかに残った建物もほとんどが進駐軍に接収され、
 ・不二家は兵士用のヨコハマ・サービス・クラブ
 ・野沢屋はショッピングセンターPX(Post Exchange)
 ・松屋百貨店は病院
 ・オデヲン座はオクタゴン・シアター
に変わり、日本人は「オフリミット」となったのです。


【 横浜市史資料室提供】


(画像協力)
◇ライトハウス 町田昌弘
今春、横浜の写真集『横濱ナイト&デー』(日本カメラ社刊)を出版。

http://www5.ocn.ne.jp/~matida/

LIGHTHOUSEさんのアルバム



◇郷土史研究家 生駒實
生駒實さんのアルバム 

◇横浜市史資料室
◇相川隆   http://www.photoclip.net/
◇奥村泰宏(著作権継承者 常盤刀洋子)
◇町別歴史資料室ならびに中区歴史保存会 大谷卓雄

(執筆 福井一男)

Baron1948さんのアルバム


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