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浜っ子の愛する横浜・三溪園




【大池と女】

水面に映る桜を小山の頂きから眺めるようにふんわりと立つ三重塔を正面にして、蛇の目傘を手にした女性の後ろ姿。情緒あるこの絵はがきの風景は、明治末の横浜本牧「三溪園」である。このようなモノクロ写真に彩色をした風景絵はがきは、三溪園が開園された明治の末ごろから多く作られ、外国人のお土産品としても愛されたようだが、絵はがきの受け取り主が、この風景から古都を思い描いたとしても不思議ではない。洋館が建ち、ガス灯が灯り、馬車が行き交う「港ヨコハマ」のイメージとはかけ離れた日本庭園。しかし、三溪園で広報をされている吉川利一さんに、昔の写真をお見せ頂きながらお話を伺うと、三溪園に根付いた横浜の歴史が浮かびあがってきた。




【三溪園三重塔
(京都相楽郡加茂の燈明寺から移築)】

【初音茶屋】


ハマッコ気質(かたぎ)の人、原三溪

175.000平方メートルという広大な土地に、京都や鎌倉などから古建築が移築された三溪園は、もとは個人の邸宅であった。主人の名は原三溪(本名富太郎)。岐阜の庄屋の家に生まれ、生糸の売込みで財を築いた原善三郎の孫・屋寿子の婿養子として原家の家業を継いだ後、類いまれなビジネスの才覚をもって財界で活躍した人物だ。
【洋装の原三溪】



その三溪が「三溪園遊覧御随意」(ゆうらんごずいい=ご自由に見物してください)という粋な看板を門柱に掲げたのは、1906年(明治39年)のことである。開園当初の三溪園の正門の写真には、二本の門柱をくぐり、庭園のなかへとそぞろ歩いていく人々の姿が写しだされている。



【三溪園の正門】

吉川さん「原三溪の凄いところは、自分の庭を一般の人に公開したことだと思います。当時の正門の写真を見ると、扉もなく実に開放感がありますよね。この自由で気取りのない開放的な空気は、とても横浜らしい。誰でも自由に自分の庭園に迎え入れる、という三溪のおおらかな心意気は、まさに浜っ子の気質に通じると思います」。



【埋め立てられる前の本牧海岸】

【海岸線に作られた木製の納涼台(展望台)】


人々は昼夜を問わず三溪の庭に入り、現在の南門の先に広がる海を眺めたり、無料でふるまわれるお茶を楽しみながら、季節の草花を愛でた。時には、山里や溪谷にいるかのような雰囲気に、自分の故郷を想ったのかもしれない。その自由な空気は、当時、三溪園に足を運んだ社会主義者の堺利彦をも賞賛せしめ、その時の思い出を綴った「本牧の一夜半日」(『櫻の国・地震の国』所収)は、「横浜万歳!原家万歳!」となかば興奮気味に結ばれている。



写真提供:横浜 三溪園 http://www.sankeien.or.jp/



「三溪園・戦後あるばむ 今と昔、変わらないこと・なくなったもの」

「三溪園・戦後あるばむ
 今と昔、変わらないこと・なくなったもの」

◇巻末データ 財団設立50周年記念誌
「三溪園・戦後あるばむ 今と昔、変わらないこと・なくなったもの」
2003年10月31日発行
編集・発行 財団法人 三溪園保勝会





【吉川利一さんプロフィール】

三溪園(財団法人三溪園保勝会)
事業課・広報担当
「三溪園の広報としてご活躍中の吉川さんは、もともとは歴史がご専門だということ。
柔らかな語り口で三渓園の歴史を余す事なくお話くださいました。」



(執筆 大谷薫子)



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