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「横浜歴史研究会」を研究する-在野歴史研究家たちの想い



 酷暑から一転して突如冬のような寒さになるなど、異常気象が頻繁に話題となった2010年。そんな中ホッと一息つけるおだやかな秋晴れのある日、みなとみらい線・日本大通り駅に程近い横浜市開港記念会館(横浜市中区本町1)の会議室にて、「横浜歴史研究会」(事務局:戸塚区上矢部町1624)の「定例発表会」が行われると聞いた。参加して在野歴史研究家、つまり生業としてではなく趣味として歴史を探求する人たちの話を聞いてみることにした。





「在野歴史研究家」の集いとは-全国歴史研究会の誕生

 横浜歴史研究会の設立経緯を語るには、まず「全国歴史研究会」(東京都品川区西五反田2)について触れる必要がある。1952年(会社サイトによればその前年)にオピニオン誌「人物往来」を刊行する「人物往来社」が誕生。現在も「歴史読本」をはじめ、様々な歴史研究関連書籍を発行している「新人物往来社」(東京都千代田区麹町3)の前身である。その内部組織的存在として、あくまで「道楽」で歴史を愛好、研究する団体が1958年7月に結成された。都内でわずか40名の会員でスタートし、翌年には「歴研会報」を独自に創刊。後に誌名を「歴史研究」と改め、2010年秋の時点で通算586号を刊行している、わが国屈指の伝統を持つ歴史モノ系雑誌だ。故あって後に新人物往来社とは袂を分かち、「合資会社 歴研」がその発行元となっているが、今でもそれぞれに交流はある。人物往来からスピンオフした形の全国歴史研究会だが、現在では登録会員数延べ1万5千名超を誇る「日本唯一にして最大の在野史学研究団体」へと発展した。主幹を務める吉成勇さんは「専門家ではない一般人だからこそ見えるもの、分かること、発言できることがある。そして何より歴史が好きな多くの方々に、自由闊達に楽しめる場の提供が自分達の役目だと思う」と語る。





横浜歴史研究会、発足

 全国歴史研究会が広がりを見せていく中で、各地方にも積極的に活動する人々が現れ「支部」が出来ていった。1983年10月、神奈川県駐労会館(中区山下町160)において「歴史研究会横浜支部」として誕生したのが現在の「横浜歴史研究会」(以下、横浜歴研と略す)である。つまり「横浜の歴史を研究する会」ではなく、「横浜で歴史を研究している人たちが集う会」が正しい解釈なのである。創設当時20名程度だったという会員数も、今では140名を超える大きな組織へと成長した。また、近隣の郷土史研究会や地元ボランティアガイド組織、或いは比較的限られた題材(時代、人物、物事などを絞って研究)を扱う規模の小さい歴史愛好家団体とも交流があり、インターネットなどにあまりなじみのない高齢者層にとっては、ある種情報交換の拠点のような役割も果たしているようである。「一地方の組織としては、かなり積極的に活動している会だという『自負』はあります」と話すのは横浜歴研・副会長の加藤導男さん。体調を崩されている会長・八城東郷さんに代わり事務局業務全般を担っている会の中心人物である。横浜歴研はそのポジション的に全国歴研とも関わりが非常に深く、理事の中には全国歴研の本部運営委員を兼任している人もいる。作家で川崎市在住の竹村紘一さんもその一人で、「神奈川歴史研究会」や「史訪会」などでも理事や顧問を務めているが、「横浜(歴研)は熱心な方が多いですね」と太鼓判をおす。




毎月開催される会員発表会-歴史ある場所で

 赤レンガの時計塔がシンボルの横浜市開港記念会館は、キングの神奈川県庁本館(中区日本大通1)、クイーンの横浜税関(中区海岸通1)と並んでジャックの愛称で親しまれ、かつては横浜に入港する船員たちのランドマークとなっていた。三つの建物を合わせて俗に「横浜三塔」と呼ばれている。元々明治42(1909)年に横浜開港50周年記念事業として、今風に言えば「コンペ方式」で建設が開始され、大正6(1917)年に竣工。大正12(1923)年の関東大震災で外壁以外を焼失したが、昭和2(1927)年に再建され、後に幾度かの改修も施された。その結果、現在は往時の姿がよみがえり、国の重要文化財にも指定されている。




 その開港記念会館1階会議室において、月1回ペースで開催されているのが横浜歴研会員による定例発表会である。140名を超える会員のうち平均でも70~80名が出席し、多い時は100名近い参加者があるという。在籍者におけるアクティブメンバー比率が高いのもこの会の特徴だろう。また、年に1回は外部からの講師を招き、より深く歴史について掘り下げようという試みもしている。2010年は6月例会時に幕末維新研究家で作家の菊地明さんを迎え、NHK大河ドラマでも話題の「坂本龍馬暗殺」についての講演が行われた。基本は在野歴史研究家の集いではあるが、専門家の話にもしっかりと耳を傾け、歴史に関してより広く深く、かつ公平な視野、見識を持てるよう努力していることがうかがえる。




お題はなんでもアリ?話題も笑いも絶えない例会と二次会

 筆者が参加した11月定例発表会のお題は、「遣唐使の航路と航海そして船」、「言霊II(第2弾)」、「私の古代幻想(4)ヤマトタケルを考える」だった。今回のラインナップを見るとなんとなく古い時代ばかりなのだろうかという気がしてしまうが、さにあらず。「"ジャパン アズ No.1"から"失われた20年"へ」(=現代)、「保科正之の生涯」(=江戸初期から中期)、「北関東に覇をとなえた小山氏の歴史」(=平安鎌倉から南北朝)、「真説 八甲田山 死の雪中行軍」(=近現代)、「幕末水戸藩の海防政策と廃仏毀釈-徳川斉昭の常陸助川城」(=幕末)等、最近の発表者の演題を並べてみても、その取り上げる時代、人物、事柄などの幅広さに舌を巻く。ここで先に述べた「横浜で歴史を研究している人たちが集う会」だという理解がないと、この演題のどこが横浜と関係しているのか?という疑問が生じてしまう。もちろん横浜が好きで特化して研究している人もいるが、この会はもっと懐の深い組織なのだ。




 発表会では1人1時間の持ち時間が与えられているが、口頭の発表のみならず参加者に配布する「レジュメ」(=発表を補助する解説書)もそれぞれに力の入った出来で、絵図を挿入して分かり易くするなどの創意工夫が見られる。ほとんどの発表者が数分から10分程度を残して自らの講演を切り上げ、余った時間を質問タイムとする。ここで学校の講義などとは違った仲間同士による熱きバトルが展開されるのである。  「ヤマトタケルは教科書などでは完全に架空の人物とされているが、本当にそうなのか」「創作の部分も多いが、歴史的事実を反映させていることも多々ある」「モデルとなったのは実際のところは誰なのか」「記紀(古事記・日本書紀)での相違点は何を意味しているのか」「諸国の『風土記』に出てくる場合はどうとらえればいいのか」「曾爺さんと息子じゃ年代が合わない!」など、発表・質問者とも真剣な中にもユーモアをまじえつつ議論を交わす。全員至ってマジメで時にはケンカ口調になってしまうこともあるが、笑いもしばしば起こり、このような大人数でありながら「和気あいあい」とした雰囲気が保たれている。もちろん運営側の努力もあるだろうが、例え特化した時代・人物があるにせよ「歴史を深く愛好し、研究している」という共通点を持った者同士の為せる業だと感じた。例会で力がこもり幾許かの険悪なムードが漂ったとしても、その後必ず行われる二次会では、酒を酌み交わし笑顔で再び歴史談義に華を咲かせる。関内駅近くの居酒屋にて、今日の発表の出来はなかなか良かった、今後こういうイベントを考えている、次回からこんなテーマで研究をしてみたい、などと時の経つのも忘れて話に没頭する。「古代史テーマにすると大体もめるんだよね。でも、終わればこうやって楽しくお酒が飲める。イイ人ばっかりなんだよ」とまとめ役の加藤さんは顔をほころばせた。




研究、勉強は机の上だけではない-課外授業も

 開港記念会館における月例発表会以外にも、横浜歴研は活発な動きをしている。現在では年2回「歴研よこはま」というB5版で50ページ程度の会報を発行している。その数は既に60号を超え、会員達による膨大な量の研究成果が掲載されている。また、年に1度は泊りがけのバスツアーにも出かける。直近では10月半ばに「三浦半島歴史探訪」と称し、横浜の古刹金沢区の称名寺、横須賀港の戦艦三笠、ヤマトタケル伝説で有名な走水神社、源頼朝が三浦義明の為に建立したとされる満昌寺から鎌倉幕府の有力御家人和田氏の居城跡、さらには現都知事・石原慎太郎の著した「太陽の季節」ゆかりの地として逗子の森戸神社境内裏手にある碑などをめぐり、各ポイントで担当講師を務める会員が詳細な説明を加えた。本ツアーのサブタイトル「日本武尊(ヤマトタケル)から裕次郎まで」が、その守備範囲の広さを物語っている。




歌舞伎をテーマに鎌倉散策-秋季歴史散歩

 11月は先に記した初旬の発表会と上記バスツアーとはまた別に、「秋季歴史散歩」なるイベントも開催されると聞きつけ、急遽そちらへも参加させて頂くことにした。今回の目的地は鎌倉。受け取った案内には「歌舞伎に登場する鎌倉を巡る」とある。日曜午前の鎌倉駅改札には49人が集合した。横浜歴研会員以外にも、全国歴研本部の運営委員や外部の人々も参加していて、例会と比べ女性の比率が高い様子。鎌倉という地理的な手軽さと歌舞伎というテーマが人気を集めた理由らしい。
 一行は江ノ島電鉄に乗車して鎌倉駅から4つ目の極楽寺駅で降りた。芝居にあまり詳しくない人でもピンとくる「白波五人男」の舞台である。いきなり物語のラストからというのはご愛嬌だが、女姿の美青年盗賊・弁天小僧菊之助が追い詰められ自害するのが極楽寺の山門ということになっている。次に向かった御霊神社は通称「権五郎神社」と呼ばれる通り、祭神が鎌倉権五郎景政である。景政というと、16歳で出陣した「後三年の役」(1083~1087)での逸話が残る実在の人物。敵の鳥海三郎に片目を射られたが、そのまま三郎を射抜き返して帰陣。兜を脱ぎ捨て「景政手負いたり」と言って倒れてしまったので、仲間の三浦平太郎為次が目に刺さった矢を引き抜いてやろうと顔に足をかけると激怒し、「弓矢に当って死するは武士の本望なれど、土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と為次に向って刀を構えた。年長の為次もその姿を見て己の非礼を詫び、周囲で見ていた者は皆その武勇を称えたといわれる。所謂「片目」伝説は形を変えて色々と残っていて、研究家の間では「産鉄民族」との関係があるのではと考えられている。権五郎伝説が伝えられている土地に横浜市港北区があり、サッカー神社として全国的に知られるようになった師岡熊野神社にも似た話がある。港北区界隈も謎が多い場所で、研究家が熱心に調査をしていることでも知られているが、その話はまたの別の機会に。

 権五郎で歌舞伎といえば当然「暫」である。十八番のうちの一つで「荒事」(=あらごと、超人的な力を持つ英雄が大暴れする)の代表的演目とされる。平安末期の河内源氏勃興の祖「八幡太郎」の弟「加茂次郎」こと源義綱の家臣である景政が、主君のピンチに颯爽と登場し助け出すという単純明快な話。「しばらぁくぅ!」の声とともに現れる主人公の姿はあまりにも有名だ。続いて長谷寺到着。極楽寺でも触れた白波五人男に登場する「初瀬寺」とはこの長谷寺のことであるとされている。境内を散策した後、相模湾へと注ぐ「稲瀬川」に到着。万葉集では「美奈能瀬(みなのせ)河」として出てくる小さな河川だが、白波五人男最大の見せ場の一つ「稲瀬川勢揃いの場」の舞台である。そもそも白波五人男とは、文久3(1862)年に河竹黙阿弥によって作られた五人組の大泥棒を描いた物語だが、大盗賊・日本駄右衛門をはじめ、前出の弁天小僧菊之助、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸の名乗りの場面は様々な芝居に影響を与えたと言われている。この場所で解説を担当していた加藤さんが歌舞伎の名口上を参加者に聞かせる。「問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在...」と覗き込んだ稲瀬川は、今では悲しいほどに汚れてしまっていた。ぷかぷかと浮かぶペットボトルやヘドロを見ながら「風情も何もあったものじゃない」と苦笑いする一同。鎌倉駅に集合してから2時間余、そろそろお腹も空いてきた頃合だった。

 よどんだ稲瀬川を後にした一行は、鎌倉海浜公園で各自持参した弁当を広げた。筆者が偶然隣り合わせた理事の一人、菅原啓一郎さんは会社を定年退職した14年前から会に参加しているという。「自分は(会社を辞めて)時間が出来てから始めた。散歩の会は勉強の場である例会とは違うし、年に2回だけだが、毎回楽しみ」とのこと。「現役」中から会で活動する人もいるが、菅原さんのようにリタイアしてからの趣味としてマイペースに研究を重ねていくパターンが多いらしい。従って会の平均年齢がどうしても高くなってしまうのが課題、と幾人かのメンバーから聞かれた。

 食事を済ませて向かったのは、鎌倉を訪れても意外に見過ごしてしまう鶴岡八幡宮の一の鳥居付近。というのも、駅を出て直接八幡宮に向うと最初に遭遇するのは朱塗りのニの鳥居であって、御影石で出来た立派な大鳥居は、意図して由比ガ浜方向へ行かないと目にすることがあまりない。但し目的地は大鳥居ではなく、直ぐ近くにある畠山重保の墓。明治期に作られた「活歴」と呼ばれる新作歌舞伎で「頼朝の死」という演題があり、その中で源頼朝を殺した人物として設定されている。実際は鎌倉幕府成立に貢献した頼朝の重臣・畠山重忠の子で、頼朝の死後北条政子の父で鎌倉幕府初代執権となった北条時政に陥れられて滅亡に追い込まれた一族の一人である。頼朝の死についても落馬が原因だとか、病死だとか、或いは暗殺説もあってよく分かっていない。故に作られたのがこういった物語なのだろうが、犯人にされた重保はどんな思いなのか、などと考えながら更に歩を進めた。

 鎌倉駅前を通り過ぎ八幡宮へ行く手前の若宮大路に、現在は三河屋という名前の酒屋がある。ここまで再三登場している白波五人男の一人、弁天小僧菊之助が、超がつくほど有名な台詞を言う「浜松屋」だったとされている場所。「知らざぁ言ってぇ聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねぇ七里ガ浜...」確かによく聞くこの口上がここで言われたのか、と思うとなかなか乙なものだ。そこから北条一族滅亡の地とされる東勝寺橋近辺を経由して、法華堂跡へ。急峻な階段の上には頼朝の墓とされる石塔があり、そのすぐ下が白旗神社になっている。今ある墓を建てたのは江戸期の薩摩藩主島津氏で、彼らは「自称頼朝の末裔」なのでこの地を整備したと思われるが、頼朝の守り本尊があったことは事実とされる。しかしながら白旗大明神拝殿の地下に眠る法華堂自体はかなり陰惨な場所で、宝治元(1247)年安達景盛の策に嵌まって叛乱を起こした幕府評定衆の三浦泰村が北条・安達の連合軍を迎え撃って敗れ、女子どもを含めた一族郎党500人以上が自害して果てた地である。何やら寒気がしないでもないが、この境内で解説及び揃って記念撮影をするということでしばし休憩。

 電車で行った場所を4時間ほど歩いて戻って来たということで、皆それなりに疲労の色が見える。本日の参加者で最年長だという会員の横須賀良子さんは「私が大丈夫なんだから」と周囲に対し気丈に振舞っていた。女性に年齢を問うのは失礼とは思ったが、おいくつですかと尋ねると「79歳です」と答えた。しかも過去に胃がんを患い手術も受けたというが、「(手術から)6年過ぎたから、もう平気なんじゃないかしら」と笑顔で語る。会には8年程前から参加していて、古代史が特に好きなのだそうだ。「ちょっと前には2日間で3万歩歩きました。それと長いこと『ジェンダーフリー』に関する活動もしています」との言葉に、正直一瞬驚いてしまった。勝手な思い込みであると直ぐに反省したが、まさかこの世代から、そしてこの状況でそういった単語を聞くとは想像していなかったからだった。

 記念撮影終了後に鶴岡八幡宮境内に向かい、この日最後の解説が行われた。前出の暫以外に「仮名手本忠臣蔵」の舞台ともなったのがこの社頭。仮名手本忠臣蔵は日本人なら大抵知っている「元禄赤穂事件」を元に描いた作品だが、当時の(江戸)幕府の手前設定をそのまま「太平記」の時代、つまり南北朝時代に移して作られているため、鶴岡八幡宮が序盤の舞台となっているのである。暫と仮名手本以外にもう1つ、「三浦大助紅梅靮(みうらおおすけこうばいたづな)」の三段目「石切梶原」がやはりこの地を舞台としているが、「義経千本桜」をはじめ、歌舞伎芝居では「敵役」の多い梶原景時が「立役」(=主に主人公となる悪役ではない成人男性)に設定されている珍しい作品ということで、普段憎まれ役ばかりの景時もこの鶴岡八幡宮ではヒーローだったんですね、と話をまとめ散歩会はおひらきとなった。

横浜歴史研究会の存在と今後-創設30周年事業、そしてその先へ

 開港記念会館での例会、そして鎌倉での歴史散歩において彼ら、彼女らと接していて感じたのは、とてもアクティブで現代の世相、流行にもある面では若者以上に精通している人が多いということ。鎌倉散策中にジェンダーフリーという単語を聞いたのも象徴的なことだったが、歴史、言わば過去を研究している人々なのに、現在、そして未来の物事に対し、恐らく一般の同世代よりも明るい。彼ら自身がそれを意識しているのか或いは無意識なのかはともかく、まさに「故きを温ねて新しきを知る」を体現しているのではないか。そして何よりも自分達の活動を楽しんでいて、例え現実的に多くの困難があっても前向きに物事を捉える人が多いということも印象的だった。彼らにそのブレない芯の強さを与えているのは、この会の存在そのものなのではないか、そんな気さえした。それでいて何も押し付けない自然さは居心地の良さへとつながる。会員数の多さ、例会への出席率の高さの理由が垣間見えた。

 前向きな姿勢の現れとして、再来年に想定している横浜歴史研究会創設30周年記念イベントに向けて既に種々の動きを見せている。因みに3年前の25周年記念の際には、開港記念会館大ホールを貸し切り、第一部ではプロの落語家を招いて高座を楽しみ、二部では2001年のNHK大河ドラマ「北条時宗」や、同じく2005年の「義経」などで時代考証を担当した日本医科大学名誉教授(当時)の奥富敬之さんが講演を行ったという。奥富さんが2008年に急逝されたことを考えると、非常に貴重な体験だったはずである。




 そういった過去のイベントも踏まえると、30周年は是非とも盛大に、かつ価値ある行事にしたいとの想いが伺える。しかし現実的に直面するのが資金集め作業である。その為の手段として、まず会の中に「所蔵本販売促進委員会」を設置した。会員たち各自に所有している書物数冊を無償で提供してもらって即売会を行うという試みで、本年7月例会時に第1回目を開催して一定の成果を収め、一部が記念イベント資金としてストックされたという。これについては今後も継続開催を予定しているとのこと。

 また新たなチャレンジとして、ICT技術の積極活用も視野に入れているという。ある一定世代以上には得てして敬遠されがちなPCやインターネット関連技術を取り入れ、自分達のものにしていきたいとの意欲を見せている。現在は会員の一人である山口正枝さんが厚意で会の活動などを彼女自ら作成した個人サイト上に公開しているが、今後は山口さんのサイトも参考にしつつ、複数のメンバーによる公式サイトの運営が望ましいとの意見が出ているそうだ。実際山口さんにある程度の負担がかかっていることも否めないことから、会員の間でもそういったやり取りがなされているらしい。30年近い活動内容を考慮すると、その作業は容易ではないだろう。しかし、ここまで積み上げてきた伝統と実績、何より先人たちの研究成果を「アーカイブ化」して次世代へと引き継ぎ、誰もが自由に過去の資料にアクセスすることが可能となれば、それは素晴らしいことである。成功すれば、現時点ではある種クローズドな団体もこれに刺激を受け、過去の研究をデジタルアーカイブ化する動きが始まる可能性を秘めているのではないだろうか。更にそれがムーブメント化すれば、専門家には逆に難しい様々な側面から自由な視点で歴史を研究した壮大なデジタルライブラリー完成への路が開けるかもしれない。そこにまた新世代の人間がアクセスすることにより、それまで定説とされていた事が覆されたり、また永らくその大半が謎のままである有史以前のこの国の姿がひょんなことから審らかになったりするのでは、と想像しただけでもワクワクする壮大なプロジェクトの始まりが、すぐそこに見えているように思える。

 そういった意味でも、是非若い人達にもこの横浜歴史研究会の活動に興味を持ってもらいたい。いきなり入会して下さいなどとは言わないが、普段からオープンな活動をしている彼らに一度会いに行ってみてはどうだろうか。歴史に詳しい必要はなく、寧ろ知らないことを沢山教えてもらえる学びの場。経験豊かな人生の大先輩たちは若者たちを快く迎え入れ、きっと親身になって話を聞いてくれることだろう。「いつでもお待ちしてますよ、歓迎します」と副会長の加藤さんは笑顔を見せた。





◇神奈川県生涯学習情報システム 団体・グループ情報詳細画面 横浜歴史研究会
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/app/search/grp/info?REG_ID=GRPSP01-0098700&sort=&page=82&CATEGORY=grp
◇横浜開港資料館 横浜郷土史団体連絡協議会・加盟団体名簿
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/news/member-organization.html
◇全国歴史研究会公式サイト インターネット歴史館 http://www.rekishikan.com/
◇横浜歴史研究会 山口正枝さんの個人サイト 正枝のチャレンジ
http://homepage3.nifty.com/y-masae/index.html
◇新人物往来社 http://www.jinbutsu.co.jp/


(執筆 宮野純子)

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