牛之甫少年
ぼくのおじいちゃんは1889年、明治22年の生まれで、職業画家だった。名前は佐藤牛之甫(うしのすけ)。山梨県東山梨郡上万力(かみまんりき)村で農家の三男坊として生まれた。17,8歳で山梨の田舎から横浜に、たばこ屋をしていた兄を頼って、出てきたということだ。そこにも長くいつかずに、ある日手ぬぐいと石けんを手に、家出する。そして絵の師匠を追いかけて、修行のため「上海」に渡った。けれどもしばらくして、山梨の母親が「父危篤。すぐ帰れ」とニセの電報を打ったために、帰ってきてしまった。それで19歳のころ、腰をすえて横浜に住み始めたらしい。
おばあちゃんの写真
戸籍をみると、おばあちゃんとの婚姻届は1923年(大正12年)に出しているけれど、1911年(明治44年)、22歳のときには長男のおじさんが生まれている。横須賀の笠木画廊に世話になっていたおじいちゃんは、画廊の奥さんに絵の才能を見込まれた。奥さんが自分の妹に「この人といっしょになりなさい」といって、ふたりは結婚したという。おばあちゃんは三浦三崎の船主の娘で、そのまた母親は牛乳風呂をたてさせるほどかつては羽振りよく暮らしていたとか。
家族写真、桜ヶ丘高女の制服の母、独身時代・モガの母
1924年(大正13年)、関東大震災の翌年、いまの南区中島町1丁目に土地を買い、居をかまえた。昔の地図で見ると当時の横浜市は小さくて、そのはじっこだ。一面の田んぼで、伊勢佐木町まで見渡せたという。子どもが8人生まれ、2人は小さいときに亡くなり、6人が育った。1920年(大正9年)生まれのぼくの母・美知枝は次女である。母から聞いたところによると、「絵描きの子だからってばかにされないように」と教育熱心で、4人の女の子をつぎつぎ女学校に通わせたそうだ。母は桜ヶ丘高女を卒業し、丸全昭和運輸の会社で会計事務員として働いていた。タイピストや電話交換手も兼ねていた。そのうえ、見込まれて合同通信という広告代理店でも働いていた、稼ぎ頭の、モダンガールだった。
絵を描くおじいちゃんの写真
牛之甫おじいちゃんは画号をきんぽう、錦の峰と書いて佐藤きんぽうという墨絵の肖像画を専門とする画家だった。絹絵ともよばれた日本画のその画法は独特で、まず木枠に絹を張って、それにニカワを塗る。そのうえに描いていく。その土台をつくるのはおばあちゃんがやっていた。描くのは墨と、鉱物からできている顔料で描く。写真の模写なので、色はそんなに使わない。いっぽうで外国人むけの絵は色あざやかだった。たまには風景画を描いたり、油絵や、頼まれて手ぬぐいや風呂敷の図案を描いたりもしていた。
横浜港に入ってくる船の外国船員やその家族の肖像を描くのが主な収入源で、元町の画商が取次ぎをしていた。画廊のショーウインドーに絵を並べていたという。
中島町内会館のずらっとした肖像画の前で詩吟を歌うおじいちゃんの写真
ぼくがものごころついたころ、おじいちゃんは、和服を着て毎日家ですずりや墨、たくさんの筆が置かれた机の前にすわっていた。弟子もたくさんいた。写真を手に肖像画を描くおじいちゃんのそばにすわってぼくは、絵を描いていた。「肌色をつくるには朱色に白を混ぜるだけじゃなくて、黄色もちょっとだけ入れるんだ」。そんなふうに教えてくれた。
町内会の役員の肖像画も描いた。近所の中島町町内会館には会館を建てた地元の有力者と町内の役員たちの肖像画がいまもずらっと飾られている。その中にはおじいちゃん自身の自画像もある。
家の玄関の前に立つ写真、背後に松の木が見える
亡くなったのは1968年(昭和43年)、79歳のときだった。脚立に乗って庭の松の木を手入れしていて、落っこちてしまった。近くの吉野町病院に運ばれたけど、だめだった。ぼくが高校1年のとき。
おじいちゃんの最期の弟子は、戦後長い間横須賀のどぶ板通りで米兵や家族の肖像画を描いていた「デッキー池森」と呼ばれた人だった。背中に障害のある小さなその男性が、よく家にお線香を上げにきていたのをおぼえている。
ぼくはおじいちゃんの愛用していたじょうぶで太い絵筆や毛先のすり減った細筆を、いまでもだいじにしている。
ぼくの中学高校時代の写真
ぼく 高橋晃は1953年(昭和28年)に横浜市南区で生まれた。高校の頃から絵の勉強をした。その後写真を学び、独学でデザインとコンピュータを勉強し、グラフィックデザイナーとして仕事をしている。いまも絵を描くことは好きだ。
父と結婚してなおこの敷地にずっと暮らしていた母は2008年夏、88歳で亡くなった。ぼくは1924年に牛之甫おじいちゃんが家を建てた場所で今日も目をさまし、仕事をし、眠りにつく。
佐藤 錦峰 牛之甫(1889-1968)