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横浜 かをり 第1章

戦後のヨコハマのなかで

 1859年の開港以来、世界への窓口として機能してきた横浜。しかし、第2次世界大戦によって甚大な被害を受け、その復興には長い時間を要した場所でもあった。
 戦前、すでに100万人都市に発展していた横浜だが、横浜大空襲をはじめとする戦火によって約40万人が被災し、そのうち1万人以上が死亡した。1945年に戦争が終わったときには、横浜中心部は焼け野原だったという。

 特に、現在の関内地区とその周辺は、進駐軍によって接収された場所。横浜市全体としては面積の27%、港湾施設に至ってはその90%ほどが連合軍に占拠されていたという記録が残っている。ホテルニューグランドにマッカーサーが宿泊したというエピソードは有名だが、ホテルニューグランドそのものが接収されていたという事実を忘れてはならない。全国の都市と比べても横浜は、関内地区をはじめとして戦後の復興が大幅に遅れていた。のちに接収が解除されてからも、雑草だらけの土地を指す自嘲的な「関内牧場」という言葉が市民の間で使われていたという。広大な空白の地帯を、人々はどのような思いで眺めたのだろうか。

 しかし、そんな環境のなかでも、人々は立ち上がり始めていた。その象徴のひとつが、今も洋菓子などで全国的にその名を知られる、「横浜かをり」だった。現社長の板倉敬子さんはこう語る(以下同)。

「現在は山下町70番地に本店を構えていますが、実はこの店が始まったのは横浜橋でのことなんです。」

 横浜橋は、大通り公園に対して垂直につながる、戦前からにぎわっていた商店街だ。終戦後には商店街有志によってマーケットがひらかれ、食料品などの生活必需品が販売されていたという。
 その横浜橋で、「横浜かをり」は1947年に喫茶店としてスタートした。当時はまだ珍しかった本物のコーヒーを淹れ、サッカリンではない砂糖を入れて提供することで評判となった。板倉さんにとって母親にあたる板倉タケさんが、その発案者。まだまだ食糧不足で人々が苦しんだ時代、香ばしいコーヒーの香りが漂う喫茶店は自然と注目を浴びる存在となった。しかし、当時の治安の悪さには悩まされたようだ。

「母は店に泊まり込みで働いていたのですが、夜は無警状態になって非常に怖かったそうです。夜中にピストルで撃ち合う音が聞こえた、なんてこともよくあったのだとか。」

 その後、横浜橋にほど近い伊勢佐木町5丁目に新たな店舗を構えることに成功。食糧難に苦しむ人が多いなか、おいしい料理で人々の心を癒したいと、今度はレストランとして開店した。
 

【 「横浜 かをり」
伊勢佐木町5丁目時代 】



【 「龍田丸」 板倉さんの祖父が司厨長を務めていた日本郵船の龍田丸 】


 「日本郵船で司厨長を務めていた祖父の一声で、1等船のコックさんたちが集まってくれたんです。常に最高の材料が手に入るような時代ではなかったと思いますが、みなさんの努力でおいしい料理を提供することができました。子ども心に、大盛況だったという記憶が残っています。」

 1955年には伊勢佐木町2丁目へ移転し、より大きな店舗を構えた。日本人向けにアレンジしたフランス料理が中心で、ショートケーキやプリンアラモードなどのデザートも充実。初めて口にする西洋の美味に、衝撃を受ける客も少なくなかったそうだ。

 国際的で豊かな街を目指し、復興していく横浜。「横浜かをり」も、次代の担い手のひとりだった。


【 「横浜 かをり」 伊勢佐木町2丁目時代 】




(2章へ続く)


(語り手)
板倉敬子
かをり商事(株)代表取締役社長
動物、植物など生き物、自然をこよなく愛するお人柄で、 神奈川芸術文化財団常務理事、横浜美術館協会理事など多数兼任され、幅広くご活躍されている。

横浜 かをり
http://www.kawori.co.jp/home/index.html

(執筆者) 河村仁美


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