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レンズから見えるハマの歴史と街の息遣い 第1章

本牧編~芝生の向こうはアメリカ~


本牧の歴史は戦後からだ。進駐軍の住宅群が広がり、そこには青い芝生、おしゃれな広い家、大きな外車があり、当たり前だが英語が飛び交っていた。本牧の向こうにはアメリカが見えた。ハマを代表するGSバンドのザ・ゴールデン・カップスもここから羽ばたいていった。米軍からの返還後は、すっかり落ち着いた住宅街になったが、本牧はちょっと背伸びしたくなるようなディープな空気を感じさせる街だった。


現在の小港、山手警察署の通りを隔てた向かい側にあったPXや映画館。写真のあたりから、本牧の先まで米軍関係者の住宅地が広がっていた。間門に向かって右側がエリア1、左側がエリア2と呼ばれていた。
PXとは一般に酒保(しゅほ)と訳される。基地内売店である。軍人、軍属やその関係者向けに酒をはじめ日用品、食料品などを販売していた。当時の日本人には垂涎の的であった洋モクや、コンビーフ、チョコレートなど珍しい品も安く手に入ったので、横流し品を入手して巧みに商売する人もいたようだ。


本牧といえば、当時は"アメリカさん"の町。その象徴ともいえる野球を楽しんでいる。現在の本牧小学校校庭。中央奥に見えるのは教会。教会のある丘をNASUGBU BEACH(ナスブ・ビーチ)と呼んだのは、太平洋戦争時のフィリピンの激戦地の名に因んだもの。 奥に見える高台は、和田山。1982(昭和57)年に米軍から返還された。


このバスもいかにもアメリカンな雰囲気がいっぱい。本牧から横須賀の米軍基地まで、軍関係者を運ぶなどに使用されていた。



ワシン坂あたりから本牧方面を望んだ風景か。昔はちょっと高台に上れば、意外なほど眺望が開けこんな写真も簡単に撮れた。横浜はもともと坂の町だが、いまではこんな眺めはなかなか難しいのではないか。


小港付近はチャブヤ街で、派手なネオンのホテル、バーなどが立ち並ぶ一角があった。 ところでチャブヤとは、横浜で生まれた言葉で、英語の「チョップ・ハウス」(簡単な手料理屋、簡易食堂)が語源。外人を運ぶ人力車夫(リキシャマン)が外人の発音する「チョップ、チョップ」を「チャブ、チャブ」と聞いたとする説が有力。
時代が進み、食堂はホテル経営に変わり、1953(昭33)年に売春防止法が公布されるとともに消えていった。すると、写真にあるホテル・パナマというのは・・・?


あでやかな夜の顔を見せる本牧・小港。
welcomeのネオンに誘われて、夜毎GIたちが町に繰り出し、チャブヤではホットな国際交流・・・?が繰り広げられた。



ikoma2.jpg (語り手)生駒實さん
生粋のハマっこ。学生時代から押入れの中を暗室にして、写真を始める。機械いじりが好きで、終戦後は、野毛の露店で外国製のライター修理の手伝いも。
進駐軍に囲まれた街の風景が目まぐるしく変化する中で、再び写真への関心が高まる。東京の千代田写真学校で写真術を学ぶ一方、山下公園などのモデル撮影会に参加するなど、カメラを肩に街を撮り歩いた。
現在は、横浜市の「なかく街の先生」として郷土史研究、フィギアスケートボランティア指導もこなしつつ、写真研究家として街の変化を撮りながら観光ガイドを行っている。

生駒實さんのアルバム

(文責:銀二)

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