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風の写る写真



【 ポリネシア全域で祭られる精霊tiki(ティキ) 】

目で見えるものは、容易に信じられ、見えないものは信じられ難い。
「見えないもの・・・」それは、亡霊のようなものではなく、想いや魂・・・。

もともと海洋王国の日本は、海から生活の糧を得て、海とともに生きてきた。
彼方に広がる海に想いを馳せ、流れる雲や星、鳥の群れなどから多くを学び、自然に抗うこと無く、海とともに生きてきた。


【 船上生活を支える保存食物 】

【 ほら貝が時の声を告げる 】


しかし、文明の発達した今日、私たちは海を身近に感じることもなく、自然の恵みに対する感謝の気持ちも、忘れかけている。
そんな時、現代社会において、日本人が忘れかけているものを伝えるように、横浜を訪れた船がある。

「 ホクレア号 」。
ハワイ語で"幸せの星(Hokule'a)"と名づけられた航海カヌー。


【 ホクレア号 】

古代ポリネシア人がハワイ諸島を発見した当時の形状を模し、天体を読み、波や風を感じ、海洋生物と語り合う、伝統的な航海術"スターナビゲーション"によって遙かな海を旅してやって来たのだ。


【 出航をほら貝で告げるホクレア号クルー 】

ほら貝の、『 時の声 』を合図に出航・・・。
今回の航海のクルーは、生粋のハワイアンと日本人スタッフが2名同行。
星を頼りに、自然に抗うこと無く、風を受け、日本を目指しての航海。


【 ホクレア号クルー 】

「ハワイ王国がアメリカになったが、文化を忘れてはいけないと、ポリネシアから船で渡って来たルーツを辿る宇宙船のような船」
そう語ってくれたのは、カメラマンの紅林敏明さん。
紅林さんは、今回、「ホクレア号」の写真を撮り続けた。
紅林さんにとって、「ホクレア号」は、「何時間でもそこに居られる船」だと言う。


【 カメラマンの紅林敏明さん(一番左) 】

紅林さんと「ホクレア号」には、更に深い関わりがある。

『 ホクレアサーフボード 』
これは、サーファーでもありサーフボードデザイナーでもある、林利夫氏が代表を務める、サーフボードのブランド。
林氏は、自らのブランドを立ち上げる際、師匠であるベンアイパーが「ホクレア」の名前を付けてくれた。
林氏は、紅林さんの、叔父にあたる人物。


【 HOKULE'A 】

【 生粋のハワイアンクルー 】


「ホクレア号」とは、かつてポリネシア人の祖先が、ハワイ、ニュージーランド、イースター島を頂点として結んだ3400万平方キロメートルの海域、「ポリネシアン・トライアングル」を海図、コンパスも持たずに行き来していた頃の、祖先たちの建造技術と航海術を再現した古代式航海カヌー。

「ホクレア号」の航海は、1976年のハワイからタヒチへの初航海以降、現在までの航路距離数は10万マイルを超えると言う。
その軌跡は、ハワイ人、ポリネシア人の起源、歴史、文化を立証すると同時に、祖先の建造技術と驚異的な精度の航海術を、私たちに伝えてくれている。

「ホクレア号」は、ハワイにおける日系人の歴史を語り継ぐこと、島国としての日本の海との関わりへの興味、そして、過去の「えひめ丸」のような悲劇を乗り越え、平和と友好のより深い関係を築きたいという願いをのせて、日本へやって来た。


【 ホクレア号 】

ハワイアンは、自分たちが何をしてきたかを残す。
その精神は、日本人も同じ。


【 ホクレア号の記憶 】

【 ホクレア号の記憶 】

【 ホクレア号の記憶 】


『 船に歴史が乗っている 』
ホクレア号は、関わった人々に敬意を賞し、人々との思い出を大切にしている。


【 エディ アイカウのシート 】

【 Eddie Aikau 】


『 エディ アイカウ のシート 』
そこは、かつてエディが居た場所。
エディの姿は無くとも、今も、エディの魂は「ホクレア号」の中に生きている。

エディは1970年代に活躍したサーファーで、オアフ島ワイメア・ベイのライフガードとしても大変有名だったハワイアン。
時には、数メートルの波が訪れるサーフィンのメッカ、ワイメア・ベイにおいて、エディの救った命は数知れないと言われている。エディは、英雄的なライフガードだった。

それは、1978年3月のこと・・・。
タヒチへの遠洋航海に出発した「ホクレア号」は台風にみまわれた。
その時クルーだったエディは、助けを求めてサーフボードで荒海に乗り出し、そのまま行方不明になってしまった。


【 横浜港に停泊中のホクレア号 】

『 6月8日 鎌倉へ 』


【 ホクレア号 三崎港に入港 】

ホクレア号は最終寄港地である横浜港への到着を9日(土)にひかえ、7日夜は三浦半島の三崎港に入港した。
そして、9日の横浜港到着の前の8日に、「ホクレア号」は鎌倉沖合へやって来た。
それは、多くのサーファーたちの願いに応え、今は亡き、タイガー エスペリに敬意を表してのことだった。

タイガー エスペリは、ハワイのレジェンドサーファーであり、「ホクレア号」の復元の際に、多くの力を注いだ人物。
「ホクレア号」が初の遠洋航海を成し遂げた時の、中心的なクルーでもある。

そして長きにわたり鎌倉に居を構え、日本のオーシャンカヌー文化の父となった。

この日、多くのサーファーやオーシャンカヌーイスト、フラダンサーなど、エスペリや「ホクレア号」とゆかりのある人たちが、稲村ガ崎~七里ガ浜沖の沿岸に待機して、「ホクレア号」の寄港を待った。


【 サーファーを先導するジェットスキー 】

紅林さんが、ジェットスキーで先導し、サーファーたちは、合図を待っていた。
紅林さんの合図とともに、サーファーたちは「ホクレア号」のもとに集まった。


【 ホクレア号を囲むサーファーたち 】

【 ホクレア号の真下 エメラルドグリーンの世界 】


そして・・・『 ホクレア号の下を潜る 』
ホクレア号の下の海の色は、驚くことに、エメラルドグリーンだったと言う。
「潜った時は、何時までもそこに居たい感じがした」
それは、何ものにも例えようのない、代えがたい・・・、そんな素晴らしい時間。


【 ホクレア ドリーミング 】

2007年6月9日(土)午前11時、長い航海を経て、ホクレア号は最終寄港地である、横浜へ到着。


【 精霊tiki(ティキ) 】

横浜港の、" 動き "が止まった瞬間があった。
海上保安庁が見張りをして、横浜港を行き来する、いっさいの船の動きを止めた。
横浜港で動いているのは、「ホクレア号」だけ・・・。
それは、特別な人が来た時の、特別なお出迎えだった。


【 横浜港に到着したその日 ホクレア号の上で 】

国際会議場で、「ホクレア号」の歓迎セレモニーが行われた。


【 クルーを和服姿でお出迎え 】

【 大さん橋で寄港セレモニー 】


ホクレア号日本航海プロジェクト「Ku Holo La Komohana / Sail On to the Western Sun」は、その準備段階から多くの方々の協力を得て、成功を収めた。

多くの人の想いを乗せた「ホクレア号」の日本への航海が幕を閉じた。


【 風を読むクルー 】

【 セイル格納したホクレア号 本牧へ 】


「 日本への航海、最後の時 」


【 クレーン下のホクレア号 】

【 コンテナへ 】


ホクレア号はクレーンで吊り上げられ日本郵船のコンテナへ・・・。

伴奏艇「カマヘレ号」は、再び航海してハワイへと帰って行った。


【 伴奏艇「カマヘレ号」帰路へ 】

「ホクレア号」の航海は続いている。
「ホクレア号」は、想いを馳せる多くの人々の記憶の海に浮かび、風を受け・・・。

「ホクレア号」の写真には、風が写っている。


【 横浜港をセイリングするホクレア号 】



(語り手・写真提供)
カメラマン 紅林敏明
紅林 敏明 さんのアルバム

(執筆)
立花 真弓 (株)物語りの巣舎



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