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日系人が語る 移住地の「食」

- 日本食"まがい"からのスタート -


【 朝食 】

「食は人間の生活のもっとも大切な基礎。海外で生活を始めるとき、言葉や生活習慣などさまざまな壁を感じることがあるけれど、最初に人間に影響を与えるのはやっぱり食べ物なんです。何といっても、生きていくためには、毎日絶対に避けられないものですからね。」

そう語るのは、1959年に技術者としてボリビアに赴任した経験のある鏑木功さんだ。南米を含む数カ国で、21年にわたって海外で生活していたそうである。「移住の窓口」であった横浜港から旅立った人々が、どのような食生活を送っていたのか尋ねてみた。


【 柑橘畑の間作 】

鏑木さんがボリビアに赴任した当時、宿泊したホテルで提供されていた食事は、毎食のようにビフテキ・焼き飯・サラダ・目玉焼きなどだった。肉を食べる習慣の少なかった戦後の日本人にとって、このメニューはかなりきつい。現地で米が栽培されていたのがせめてもの救いだったが、醤油や味噌など、日本食の味の根幹となる調味料はまだ存在しなかった。

「だから、現地の食事に耐え切れなくなった私の友人などは、自分で材料を探して日本食"まがい"をつくり出すしかなかったんです。塩と外米だけでおかゆを作ったり、川で釣った名前も知らない魚を刺身にしたり......。食料品店でやっと醤油らしきものを見つけたと思ったら、焦がした砂糖で茶色く色づけされた塩水だった、なんてこともありました。」

1世たちが最初に感じた、" 食 "の壁。
しかし、現地で日本人社会が構築されていくとともに、その壁は乗り越えられていく。

「大豆の栽培や調味料の製造、輸入などが始まりました。しかし、いわゆる日本食を忠実に再現していくだけでは、栄養的に問題があったんです。熱帯気候の地域で開拓という重労働をこなすわけですから、やはり栄養価の高い肉なども食べなければならない。現地の食生活と日本食を何とか"折衷"していくことで、徐々に食生活を安定させていきました。」


【 醤油の製造 】

- 受け継がれる、" 食 "を楽しむ知恵 -

一方、日系人社会がすでに発展していたブラジルなどの都市部では、日本食を再現するのはそれほど困難ではなかったようだ。

「私が1968年にブラジルのサンパウロに赴任した頃には、味噌や醤油など調味料はもちろん、豆腐・海苔・昆布などもすべて日系人によって作られており手に入ったんです。店で買えないのはマツタケとウナギくらいだ、なんて冗談もありましたよ。」


【 トマトの出荷 】

だからこそ、主婦たちは料理に力を入れた。家族が思い描く日本食を作るために、足りない食材を何とか補って工夫を重ねた。梅干しを再現するために、酸味の強い植物の花を塩漬けにする、といった知恵が広まっていったのだという。

「当時のごちそうといえば、何といっても巻き寿司。いかに具を工夫するかが、主婦の腕の見せ所。他にも、いなり寿司や魚の刺身、天ぷらなどが、日系人が集まるパーティには欠かせないものでした。」


【 宴会 】


【 ダンスパーティ 】

誕生日や結婚式などのイベント時はもちろんのこと、日系人は何かにつけてホームパーティを開く。親戚や友人、ご近所さんを集めて、日本風の料理でもてなす。

「日系人同士の絆を深めるためでもありますが、現地の人たちとコミュニケーションをとるためにも重要なことです。"来る人拒まず"という場を楽しむ方法は、日系人の2世や3世にも受け継がれていますよ。そこではやはり、" 食 "がコミュニケーションのツールになっていたんです。」


【 結婚式 記念撮影 】

横浜港から旅立った日系人が体感した、" 食 "の重要性。 今、横浜にいる私たちがそこから学べることは、決して少なくないようだ。


(語り手)
鏑木 功(かぶらき・いさお)
1934年生まれ。1959年に技術者としてボリビアに勤務したのを契機に、アルゼンチン、ブラジル、ペルーと21年にわたって海外生活を送る。移民1世の方々が努力と苦労の上、それぞれの国で得ていった人としての信頼と農業貢献などについて後世に伝えていくため、海外移住資料館でガイドボランティアの活動に励んでいる。

(協力)
西脇祐平(にしわき・ゆうへい)
JICA横浜 海外移住資料館 業務室担当者

西脇祐平さんのアルバム


(執筆者)河村仁美

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